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万葉集その六百六十四 (刀剣乱舞)

( 古代の飾り太刀復元品  藤の木古墳出土 奈良橿原考古学研究所 )
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( 水龍剣 刀身は聖武天皇の佩刀と伝えられ明治天皇が拵えを製作させ佩刀された。東京国立美術館)
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( 伯耆安綱   平安時代  東京国立博物館 )
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( 粟田口久国  鎌倉時代   同上 )
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( 相州正宗    同上 )
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( アイヌ太刀   東京国立博物館 )
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(  刀剣乱舞展   秋葉原 )
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(   同上  )
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    万葉集その六百六十四 (刀剣乱舞)   

桶谷繁雄著 「金属と日本人の歴史」(講談社学術文庫)によると

『 古代の刀剣は正倉院に多数保存されており(刀剣55 小刀短刀72)、
  そのほとんどは直刀である。
  さらに、平安時代の800~900年に伯耆国(鳥取県)に安綱という名工が出現し
  我国の造刀技術が完成したと伝えられ、現在見られる日本刀の形へと変わった。
  鎌倉時代になると、実用的な鋭利な刀が多数製造され、粟田口国吉、
  来国俊、正宗、定宗、一文字吉房、青江助次、波平行安など名工といわれる人々が
  全国に輩出した。』(要約)そうです。

これらの名刀は国立東京博物館に常時陳列されており、何時でも鑑賞することが
出来ますが、今やゲーム「刀剣乱舞」やコミックマーケットの影響で
「刀剣女子」の博物館巡りが大流行。
かたや、秋葉原で「刀剣乱舞展」が開催されており、若い女性で超満員です。

万葉集には剣太刀、焼太刀、枕太刀と表現されたものが34首。
枕詞や恋歌に多く見られる中で、次の歌は太刀そのものを詠った数少ない例です。

「 焼太刀の かど打ち放ち ますらをの
    壽(ほ)く豊御酒(とよみき)に 我れ酔(ゑ)ひにけり」 
                                    巻6-989 湯原王

( 焼き鍛えた太刀の切っ先で酒を打ち 大丈夫(ますらを)が祝う美味い酒に
  私はすっかりと酔ってしまいましたよ )

  「焼太刀」:何度も焼いて鍛えた太刀 

  「かど打ち」:太刀の切っ先で酒を御祓いして悪霊を追い払うという呪法。

  「豊神酒 」: 祝い酒

万葉人は刀鍛冶が赤く熱した鋼を何度も力強くたたいて見事な刀に仕上げていくのを
目の当たりにし、その様子を「焼太刀」という3文字で表現しました。

  「かど打ち」の「かど」は「稜(かど)」で太刀の切っ先。

  「門出」の「かど」を掛けているとしたら誰かの旅の出立を祝っての
  酒盛りであったのかもしれません。

作者は天智天皇の孫。
「 あぁ、美味い酒だ、酔った酔った」という声が聞こえてきそうな
調子がよく、力強い歌です。

「 焼太刀を 砺波(となみ)の関に 明日よりは
    守部(もりへ)遣(や)り添へ 君を留(とど)めむ 」 
                              巻18-4085 大伴家持

( 焼いて鍛えた太刀、 その太刀を磨ぐという砺波の関に、明日からは
 番人をもっとふやして あなた様をお引き留めいたしましょう。)

ここでの焼太刀は「砥石で磨ぐ」の意で砺波(となみ)に掛かる枕詞。

749年 東大寺の僧、平栄(びょうえう)他数人が寺所属の開墾田の状況を
確かめるため越中を訪れました。
当時の世相は元正上皇が他界され、聖武天皇が即位されたり、
大仏建立のための黄金が陸奥国から献上されるなど大きな出来事があった時期。

越中国司、家持は都の状況を聞きたいという事もあり、平栄を歓待し
「 1日でも長く御滞在下さい。砺波の関を固めてお通しいたしませんよ」と
おどけながら、引きとめたもの。

都の大きな動きを耳にしなが、心を弾ませている作者の顔が
目に浮かぶような1首です。

「 枕太刀(まくらたし) 腰にとり佩(は)き ま愛(かな)しき
        背(せ)ろが 罷(ま)き来(こ)む 月の知らなく 」 
                     巻20-4413 大伴部 真足女(おほともべの またりべ)


( 枕太刀を腰にとり帯びていて凛々しく 愛しくてならないあなた。
 元気でお帰りになる日が何時のことかわからないのね。
 あぁ、寂しい! 早く帰ってきて!)

  「枕太刀」:「夜寝る時も手放さず枕元に置く愛刀」のちの脇差か。

  「罷(ま)き来(こ)む」:「罷(ま)かる」(退出する)と同義語。
                ここでは役目を終えて帰るの意

作者は武蔵国の防人の妻。
いよいよ大宰府へ出発、太刀を佩いた雄々しい夫。
同じ姿で無事帰ってくるのは何時の日かと案じています。

防人の任期は3年、任地まで徒歩に野宿、熊などに襲われる危険があり
生還が確実視出来ない当時の長旅でした。
しかも、旅費は往路難波まで自費、帰りは全額自己負担という過酷なもの。
食糧が尽きて行き倒れになった人も大勢おり、愛する人たちにとっては
今生の別れにも等しい旅立ちであったことでしょう。

「 剣太刀 身に佩(は)き添ふる ますらをや
     恋といふものを 忍びかねてむ 」 
                     巻11-2635  作者未詳

( 剣太刀 この立派な太刀を身に帯びている丈夫(ますらを)たるものが、
 恋と云うものの苦しみに耐えきれないものなのだろうか )

恋は剣より強し。
自嘲しながらも嬉々としている男ですが、今や幻想の舞台に酔いしれる
刀剣女子の時代です。

       「 刀剣を 帯びた美女たち 空を舞う 」 筆者



               万葉集664(刀剣乱舞) 完

             次回の更新は新年1月2日( 火)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-12-21 15:14 | 生活

万葉集その六百六十三 (有馬皇子)

( 有馬皇子系図 中大兄皇子:のち天智天皇は有馬皇子の伯父にあたる)
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( 結びの松の碑  和歌山県日高郡南部町西岩代 )
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( 有馬皇子   上村松篁 )
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( いはしろ  岸野圭作  末尾の作者の言葉ご参照 )
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( 六義園案内板  東京 )
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( 六義園の藤代峠 )
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(  同上 )
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(  同上  頂上から )
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万葉集その六百六十三(有馬皇子)

645年、中大兄皇子と藤原鎌足は専横を極める蘇我一族を亡ぼし、
天皇中心の政権に回帰させました。
世にいう大化の改新です。
当時の天皇は皇極女帝、外交儀式の最中に実子、中大兄皇子が
宮殿内で宰相を誅殺したのですから、ショックは相当なものであったことでしょう。

事件後、女帝は周囲を憚り、弟、軽皇子(かるのみこ)に譲位され、孝徳天皇が誕生します。
新帝は有馬皇子の父君で、皇子は有力な皇位継承者になりましたが、
同時に中大兄皇子にとっては目障りなライバルとなり、後の悲劇の火種が蒔かれたのです。

孝徳天皇は即位と同時に都を飛鳥から難波に遷されましたが、ほとぼりが冷めた9年後、
中大兄皇子は再び飛鳥にもどすことを天皇に進言します。
ところが天皇は頑として応じられません。
説得を諦めた中大兄皇子は強引にも皇極上皇、弟の大海人皇子、
間人皇后 (はしひとこうごう 中大兄皇子の妹) をはじめ、公卿大夫、
百官に至るまですべてを引きつれ、なんと天皇一人置き去りにして飛鳥へ遷ったのです。

特に最愛の皇后まで同行したことは天皇にとりショックだったことでしょう。
なにしろ中大兄皇子は妹である皇后に恋愛感情を抱いていたと噂されていたのですから。

愕然とした天皇は憔悴し、翌年(654)、孤独のまま崩御。
有馬皇子(当時16歳)にとって中大兄皇子が父を殺したと
恨めしく思ったとしてもおかしくありません。

飛鳥に戻った皇極上皇は重祚(ちょうそ)され、斉明天皇の誕生。
( 重祚:一度退位して再度即位すること )

政治の実権を握った中大兄皇子は権力を誇るかのように大和多武峰の山上に
双槻宮(なみつきのみや)造営の大土木事業をはじめます。
それは、香久山の西側に船200隻通行可能な運河を作るという 
とてつもない大工事で、全国から人民を徴発し、過酷な労働を課した為、
怨嗟の声が湧き起ります。
宮殿への放火が続き、豪族の間で次第に皇位継承者に有馬皇子待望論が
台頭し始めました。
父親の処遇を目の前で見ていた皇子は身の危険を感じたのでしょう、
遂に狂人を装い、身をくらまそうとします。
まさにハムレットばりの演技。

そして18歳の時、牟婁の湯(むろのゆ 和歌山県)に療養に出かけ、
しばらく滞在したのち帰京した皇子は中大兄皇子に
「 牟婁の湯は大変効果があり、お蔭で体調も回復しました。」と報告します。

翌657年、悲劇の幕開けです。
斉明天皇は孫の建皇子(たけるのみこ)を病気で亡くし悲嘆にくれておられ、
傷心を慰めるため牟婁の湯に行幸されることになります。
中大兄皇子も同行し留守を蘇我赤兄(あかえ)に託します。

それからしばらくしてから生駒に住んでいた有馬皇子が赤兄を訪問。
疎遠であった二人の久しぶりの歓談がひとしきり終わった頃合いを見て、
赤兄は皇子に

「 さて、近頃の時世は騒然としてきましたね。
  皇子殿はどう思われますか?」

と問いかけます。
皇子は用心しながら

「 中大兄皇子の政治は結構だと思います。」
  と当たり障りのない回答。

すると、赤兄は

「 本当にそう思っているのですか?
  私は中大兄皇子には3つの大きな失政があると思っている。
  一つ、大きな倉を建て、民の財を取り立てている。
  二つ、運河を掘り公の宝を無駄遣いしている。
  三つ、巨大な双槻宮(なみつきのみや)を造営。」

貴殿は如何に?

若い有馬皇子はまんまと誘導に乗り、
「 あなたがそう思うなら私も同じ考えだ。」
さらに勢いに乗り
「 いまこそ 兵を用いるべきだ」と踏みこんでしまいました。

赤兄は腹の中でにんまりしながら、
「 それでは私も考えるところがあるから2日後にもう一度
  お出で下さい。
  作戦計画を練りましょう」 と答える。

そして2日後、二人の作戦計画です。

 「 まず飛鳥に放火、兵500人を紀伊に向けて派遣、
   行幸の一行を淡路島で迎え撃つ 」
など、具体的な話をしていたら突然、有馬皇子の脇息(肘掛) が折れました。
予め赤兄が細工していたのかもしれません。

赤兄曰く、「 これは不吉だ。 
また今度にして今日の話は、なかったことに。」
と云い、有馬皇子を帰します。

そして皇子が帰宅した頃を見計らい、
配下の物部 朴井 連鮪( もののべの えのいの むらじ しび)という人物に命じ
謀反の現行犯として逮捕させた後、中大兄皇子に急報し牟婁の湯まで連れていったのです。

恐らく、両者は予め示し合わせていたのでしょう。
次の歌は、有馬皇子が飛鳥から牟婁の湯に護送される途中、
和歌山の岩代いうところで詠まれたものです。
  
「 岩代の 浜松が枝を 引き結び
    ま幸(さき)くあれば また帰り見む 」
                     巻2-141 有馬皇子

( あぁ 私は今 岩代の浜松の枝と枝とを引き結んで行く。
もし万が一願いが叶って無事でいられたら、 またここに立ち帰って
この松を見ることであろう。)
古代の人は異郷を旅するとき、その地の地霊に安全を祈念しました。

特に岩石には強力な神が宿るとされ「岩代」という地にねんごろな
祈りを奉げたものと思われます。
この場所は、熊野神社の入口にあたるだけになおさらのことだったのでしょう。
引き結んだのは幣帛か枝と枝とを結んだのか分かりませんが、
ともに神聖な儀式です。
再び戻ることがないと覚悟しつつ、一心不乱に神のご加護を祈る皇子。
その心情察するにあまりあります。

「 家なれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕
       旅にしあれば 椎(しひ)の葉に盛る 」 
                           巻2-142 有馬皇子

( 家にいる時は立派な器物に盛ってお供えする飯なのに
 今は旅の身ゆえに椎の葉に盛らせていただきます。神様。)

近くに祠か石仏があったのでしょうか。
木の葉に飯を盛って神に供える習慣は今でも続いているそうです。

この歌は従来、皇子が囚われの身ゆえ
「 自身の食事は立派な器ではなく貧しい木の葉で摂ることよ。
  侘びしさがつのる。」と解釈されていましたが

国学院大学教授、高崎正秀氏が「これは神に奉げる飯のことである」と
発表されて以来、神饌であることが通説になっています。

さて、中大兄皇子の前に引き立てられた有馬皇子。
「 お前はなんで謀反を起こそうとしたのだ 」と尋問を受けます。

皇子は既に計られたと悟り、死を覚悟していたのでしょう。

「 天と赤兄が知る。われは知らず。」と答えました。

お前さんの胸によく聞いてみるがよい。
あなたと赤兄の奸計だと暗に云ったのです。

中大兄は「 よし、もう帰れ。」と命じたものの、もとより許すはずがありません。
そして、多治比 小沢連熊襲(たじひの おざわむらじ くにそ) に後を追わせ
熊野街道、藤代坂で自ら首をくくらせました。
弱冠19歳。
毛並みよく有能だっただけに中大兄皇子にとって自身の存在を脅かす邪魔者。
ライバルは早めに消せとの思惑が働いたものと思われます。

有馬皇子が残した歌は2首のみ。
死を覚悟した若者とは思えない静謐、毅然とした調べの名歌です。

それから43年後の大宝元年(701)、文武天皇と祖母、持統太政天皇が
牟婁の湯に行幸されたとき、随行していた人麻呂?がその心情を慮って詠います。

「 のち見むと 君が結べる 岩代の
      小松がうれを またも見むかも 」 
                       巻2-146 柿本人麻呂歌集

( のちに見ようと皇子が痛ましくも結んでおかれた松の梢よ。
  この梢を私は再び見ることが出来ようか。 )

「何度でも見に来て皇子を偲びたいが、おそらく無理であろう。
 とうか魂よ、安穏におさまり給え。」
と有馬皇子を偲び、さらに

「 岩代の  野中に立てる 結び松
     心も解けず いにしへ思ほゆ 」 
                  巻2-144   長忌寸 意吉麻呂 (ながのいみき おきまろ)

( 岩代の 野中に立っている結び松よ
 お前の結び目のように、私の心はふさぎ結ぼれて
 昔のことがしきりに思われる )

「 天翔(かけ)り あり通(がよ)ひつつ 見らめども
    人こそ知らね 松は知るらむ 」 
                          巻2-145 山上憶良

( 皇子の御魂は天空を飛びかいながら常にご覧になっておりましょうが、
     人にはそれが見えません。
     しかし松はちゃんと知っているのでしょう。)

と続々追悼の歌が奉げられました。

668年、中大兄皇子は近江大津宮で即位。天智天皇誕生。
ほどなく病床に就いたとき、皇太弟、大海人皇子に譲位を持ちかけますが、
有馬皇子の事件を熟知している大海人は奸計と直感して直ちに辞退し、
天智の子、大友皇子に皇位をと申し出て剃髪して恭順を示し、
天皇が油断している間に僅かな人数で吉野に逃れたのです。

672年、大海人皇子は壬申の乱で勝利して天武天皇に即位。
ようやく凄まじい骨肉の争いに幕を閉じたかと思われましたが
天武死後、持統女帝の時代、再び大津皇子の悲劇が起こりました。

有馬皇子、大津皇子の波乱万丈の運命は後の人々の心をうち、
色々な小説になって伝えられています。

   「 藤代の 落花を敷きて 皇子の墓 」  山口超心鬼


ご参考:

1、掲載画 「いはしろ」 岸野圭作画伯のことば 

「 紀伊半島の中ほど岩代の地に、ともすると国道を往来する車の影に
  かき消されそうになりながら、有馬皇子の碑は建っている。
  ここから海を眺めていると夕日が見える。
  1300年余の昔、この夕日が明日の朝日へ続くように、夕照の中、
  皇子は、再びこの地へ帰ること願い、習によって松を結び、
  歌を残したのではないかと思う。
  しかし願いは叶えられる事なく、同じ紀伊藤白において、
  その短い生涯を閉じる。
  皇子の心も時代のことも私には知る由も無いが、今はただ粛々として
  松が枝を揺らし吹く風と、悠久の時を刻む海を見たささやかな出来事を
  聞いたような気がした 」 

 2、大津皇子については

     万葉集遊楽 その530 「大津皇子1」
           その531 「大津皇子2」
   をご参照下さい


           万葉集663 (有馬皇子) 完


            次回の更新は12月22日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-12-14 16:15 | 生活

万葉集六百六十二 (椎の木)

( 椎の木 :スダジイ 自然教育園  東京 )
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( 同上  奈良万葉植物園 )
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( 椎の実 スダジイ  奈良公園 )
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( 同上   マテバシイ  同上 ) 
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( 椎の原木は椎茸のホタギ:榾木 に用いられる  長谷寺参道で 奈良 )
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( クヌギの実   自然教育園  東京 )
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万葉集その六百六十二 (椎の木)  

椎(シイ)はスジダイ(イタジイ)、ツブラジイ(コジイ)、マテバシイの総称とされ、
本州以南に生育する常緑高木です。
照葉樹林の代表的構成種とされ、スジダイ、ツブラジイはブナ科シイ属、
マテバシイは別種マテバシイ属。
共に堅くて弾力があり建築材、家具材とされたほか、木の実はアク(タンニン)が
少なく生食できる上、60%が糖質でカリウムが多く、ビタミンB1、B2、Cなど
栄養価が高いので古代の重要な食糧とされていました。
また、原木は椎茸栽培の榾木(ほだぎ)、薪炭、樹皮は漁網の染料、利尿薬としても
用いられる有用の木です。

万葉集では3首。
生活に密着した樹木にもかかわらず少ないのは意外な気がします。

「 片岡の この向つ峰(を)に 椎蒔かば
            今年の夏の 蔭にならむか 」 
                   巻7-1098 柿本人麻呂歌集

( 片岡と云う名の、この向かいの高みに、椎の実を蒔いたなら
 今年の夏には日かげになるほどに育っていようか )

片岡は奈良県北葛飾郡王寺町から香芝町一帯。
シイは枝葉がよく茂りよく日蔭をつくりますが、大木になるには少なくとも
30年以上かかるとされていますので、この歌は文学的表現。
「恋の種を蒔いたなら、夏に成就するだろうか?」の気持ちが含まれているのかも
しれません。

   「 先ず頼む 椎の木もあり 夏木立 」 芭蕉

元禄2年、6か月を費やした奥羽、北陸の長旅ののち近江、石山の奥
国分山の幻住庵に住むことになった時詠まれた一句。
長い漂泊の旅のあと安住の場を得た安らぎの気持ちを椎の木陰に託したものです。



「 遅早(おそはや)も 汝(な)をこそ 待ため
    向(むか)つ峰(を)の 椎の小枝(こやで)の逢ひは 違(たが)はじ 」 
                                 巻14-3493  作者未詳

( 遅かろうが早かろうが、お前さんの来るのを待とう。
 真向いの峰の椎の小枝が重なりあっているように、
 逢えることは間違いないだろうから。)

「遅早(おそはや)も」: 相手が来るのが遅かろうが早かろうが

「向(むか)つ峰(を)の 椎の小枝」: 
                逢ひを導く序詞で 「向かいの峰の椎の小枝」
                シイは小枝が多く交叉(こうさ)するので
               「小枝(こやで)と女が「来(こ)や」を掛けている。
               小枝(こやで)は小枝(こえだ)の訛り。

向うの山の椎の木を眺めながら女を待っている男。
出来るなら早く来てほしいという気持ちが籠っています。

この歌には次の一首が併記されており、女の歌と思われます。

「 遅早(おそはや)も 君をし 待たむ
    向(むか)つ峰(を)の  椎のさ枝の 時は過ぐとも 」 
                   巻14-3493 或る本の歌  作者未詳

( 遅かろうが早かろうがあなたのお出でを待ちましょう。
 真向いの峰の椎の若枝が茂る時、その約束が過ぎようとも )

        椎のさ枝: 椎の若枝が茂る 「時」を起こす序 

     「 団栗や ころり子供の 言うなりに 」 一茶

                   (団栗(どんぐり)は木の実の総称)

奈良公園は団栗の宝庫、椎をはじめイチイガシの実などいたるところに
落ちています。
大きなもの小さいもの、
細長いものから丸いもの。
中にはトチやコナラの実も。
幼い頃、集めては箱にしまった思い出の宝物です。

  「 椎の実 沢山拾うて来た 息をはづませ 」  河東碧悟桐



         万葉集622(椎の木) 完

         次回の更新は12月15日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-12-07 15:27 | 植物