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万葉集その七百 (帝王聖武)

( 聖武天皇  小泉 淳作 画  東大寺蔵 )
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( 東大寺大仏殿 )
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( 東大寺南大門 )
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( 正倉院 )
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( 大仏池 )
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( 鋳造中の大仏  奈良万葉文化館 )
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( 二月堂 お水取り )
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( 聖武天皇佐保山陵 )
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万葉集その七百 (帝王聖武)

聖武天皇といえば、まず頭に浮かぶのは国家の財を湯水のごとく使い、
東大寺と大仏、さらに全国に国分寺と国分尼寺を建立した専制的な天皇。
5年の間に都を平城京、恭仁京、紫香楽宮、難波宮とめまぐるしく造営し、
最後に平城京に戻る、という常人では考えられないような彷徨の人。
そして、生前愛用した絢爛たる日用品や宝物を正倉院に遺し、
現在なお多くの人を魅了してくれている帝。
といったところでしょうか。

732年8月、聖武天皇は節度使を各地に派遣することにしました。
節度使とは地方の軍備の充実をはかるために置かれた監察官、いわば
駐屯部隊の隊長です。
派遣されるメンバーは、東海、東山二道に藤原房前、山陰道に 多治比真人、
西海道は藤原宇合。

(  東海道:常陸から伊勢まで  東山道:陸奥から近江 
   山陰道:丹波から壱岐    西海道:九州から対馬 )

さらに加うるに、道ごとに判官4人、主典4人、医師1人、陰陽師1名という
錚々たる陣容です。

次の歌は出発にあたり壮行会で天皇が下された長短歌。
宣命のような調べになっています。

まずは長歌の訳文から

( 朕が治める国の 遠く離れた政庁に
  そなたたちが こうして出向いたならば
  私は心安らかに 遊んでいられよう。
  腕を組んでいられよう。
  天皇たる我は その尊い手で そなたたちの髪をなでねぎらい給うぞ。
  そなたたちの頭(こうべ)をなでて ねぎらい給うぞ。
  そなたたちが帰ってくる日、その日に相ともにまた飲む酒であるぞ
  この尊い酒は )     6-973 聖武天皇

 原文

「 食(を)す国の 遠(とほ)の朝廷(みかど)に 
  汝(いまし)らが  かく罷(まかり)なば
  平(たひら)けく 我は遊ばむ
  手抱(てむだ)きて 我はいまさむ

  天皇(すめら)我れ うづの御手(みて)もち かき撫でぞ 
  ねぎたまふ うち撫でぞ
  ねぎたまふ 帰り来(こ)む日  相飲(あひの)む酒(き)ぞ
  この豊神酒(とよみき)は 」
                              巻6-973 聖武天皇

語句解釈

     食(を)す国: 天皇の統治する国 「食(を)す」は「食う」の敬語。
                   統治するものは諸国献上の五穀を食べることで国々の支配を
                   果たすという考えから「治める」の意となった。

     遠の朝廷(きかど」: 天皇支配下の各国庁
     罷(まかり)なば: 退出したら

     平けく我は遊ばむ: 帝王自ら手を下さずして天下治まるの意

     うづの御手 ;「うづ」は高貴の意 祝詞などに使われ
              「宇豆は貴なり」の記述もみえる。
              天皇という立場から自らの敬語を使っている

      かき撫でぞ: 頭を指で撫で無事成功を祈る呪的行為

      ねぎたまふ:優しくいたわる

      豊神酒 : 霊力ある酒

 反歌

「 ますらをの 行(ゆ)くとふ道ぞ  おほろかに
      思ひて行(ゆ)くな  ますらをの伴(とも) 」
                      巻6-974 聖武天皇

( これからの道は ますらお たるものが行くという道。
通りいっぺんな気持ちで行くのではないぞ。
ますらおのこ たちよ )

 おほろかに: 通り一辺な気持ちで

「 雄渾な調べの中に王者の貫録がみなぎっている。
  汝らの労ゆえに みずから手を下さなくても天下がよく治まる。
  その労を賞(め)で、その功が発揮されるよう天皇たるもの
  この手で汝らの頭を撫でるのだ、の部分は無事成功を祈る呪術。」
                                     ( 伊藤博 万葉集釋注3)

以下は私的な場で詠われたもので声調が がらっと変わります。

「 秋の田の 穂田(ほだ)を雁がね 暗けくに
      夜のほどろにも 鳴き渡るかも 」 
                      巻8-1539 聖武天皇

( 秋の田の穂田を刈るという名をもつ雁が、まだ暗いのに
      夜の明けきらないうちから、鳴き渡ってゆく)

    夜のほどろ: 「ほどろ」は密なる物が拡散して粗になるさまを言う語で
             ここでは夜の闇が白みはじめる頃

「 今朝(けさ)の朝明(あさけ) 雁が音寒く 聞きしなへ
        野辺(のへ)の浅茅ぞ 色づきにける 」 
                         巻8-1540 聖武天皇

( 今朝の明け方に雁の声を寒々と耳にした。
  折しも周りを見渡すと、野辺一帯の浅茅がすっかり色づいているぞ。 )

自然の情景を感じたまま述べ、公の場で見せる威厳とは違う穏かな
性格が滲みでている2首です。

 また、狩場での次のような女性との戯れ歌も残されています。

「 赤駒の 越ゆる馬柵(うませ)の 標(しめ)結ひし
     妹が心は 疑ひもなし 」  
                         巻4-530  聖武天皇

( 元気な赤駒がうっかりすると飛び越えて逃げる柵を
     しっかり結び固めるように、お前も私のものであると標を結っておいた。
     汝の俺を想う心に何の疑いもないよな。)

  海上女王(うなかみの おほきみ 天智天皇皇子 志貴皇子の娘) に贈った歌。

「 しっかりと標(しめ:目印) を結んで固めたからには、
  馬が柵を越えて放れ馬になるように、お前が勝手に俺から離れていくことは
  ありえない」

の意を込めた、狩場の宴席での戯れ。
それに対して女王は

「 梓弓 爪引(つまび)く夜音の  遠音(とほと)にも
      君が御幸(みゆき)を 聞かくし よしも 」 
                             巻4-531 海上女王

( 魔除けに梓弓を爪引く夜の弦打ちの音が遠くに聞こえますが
  その音のように遠くから聞こえてくる噂、
  我が君の行幸があると伺うことが出来るのは嬉しいことでございます)

女王は帝の行幸に参加しているので目の前の席にいます。
しかし天皇から詠みかけられた歌は狩の御幸の場なので、
自分が今いるところにお出まし戴けるのはうれしいことですと
機転を利かしたもの。

狩の開始直前に大猟を予祝して弓の爪引きを行なうのが当時の慣例でした。

   「 父母よ 今は何処と 首(おびと)泣く 」  筆者

              首(おびと):聖武天皇の幼名


聖武天皇は701年文武天皇を父(天武孫) 藤原宮子(不比等娘)を母とする
第1皇子に生れましたが、わずか7歳の時に文武死没。
母、宮子も出産後、心的障害に陥り長年隔離生活を送ったので
何と37歳になるまで対面することが出来なかっという寂しい幼年時代を
過ごしました。

母方の祖父藤原不比等邸で育てられたといわれていますが、
自ら決めたことはどんなことがあってもやり通すという強靭な意思は
その不幸な生い立ちから培われたのでしょうか。
 
    「 三代の女帝 首(おびと)を  守り抜く 」  筆者

天武天皇亡きあと天武第一皇子草壁皇子が若くして亡くなったため(27才)、
持統皇后が皇位を引継ぎ、その後元明(文武の母)、元正(文武の姉)と
3代の女帝が聖武の成長を待つために中継ぎとして皇位を継承し、
聖武24歳でようやく即位します。

当時の世相は天然痘が流行し、権勢を誇った藤原4兄弟をはじめ朝廷高官の相次ぐ死亡。
さらに、飢饉、戦乱、度重なる遷都による労力負担、民の疲弊による逃亡、
など社会のあらゆる面で律令国家の存立が危ぶまれる状態でした。

聖武はこの難局を打開するため、世にも稀なる巨大な大仏を建立することにより
あらゆるエネルギーを吸収し鎮護国家を作り上げることを目指したのです。

彷徨の5年と云われる地方行幸も天武天皇の壬申の乱の折の足跡を辿り、
建国の精神に立ち戻って国家再建の決意を新たにし、相次ぐ遷都も
大仏建立のための物流基地、工事現場の確保などの目的もあったようです。

しかしながら、紫香楽の宮で大仏の像体骨柱が出来上がったころで
地震水害が発生したうえ、民の不満が頂点に達して放火が相次ぎ、
遂に都を平城京に戻さざるをえなくなりました。

それでも、聖武は不撓不屈の精神を傾け、金鐘寺(こんしゅじ:のちの東大寺)で
大仏の造立を続け、完成間近の749年、幸運にも陸奥の国から金産出。
遂に752年、9年を費やして大仏開眼を果たしたのです。

 「 あをによし 奈良の都は 咲く花の 
       にほふがごとく 今盛りなり 」  
                      巻3-328 小野 老(おゆ) 

その後海外からの渡来人も多くなり平城京は、さながら国際都市となり
  天平文化の華が開きます。
  国を傾けるような大事業。
  帝王聖武は未来永劫の遺産を我々に遺してくれたのです。

  「 おほらかに もろてのゆびを ひらかせて
        おほきほとけは  あまたらしたり 」  会津八一

( 大仏は 大きく豊かな両手の指を お開きになって
     その慈徳は 宇宙に広く満ち広がっているのです 。)

749年、天皇は第1皇女阿倍皇太子に譲位、孝謙天皇誕生。
756年 聖武太上天皇56歳の波乱の人生に幕を閉じ、佐保山陵に葬られました。

 隣陵には終生の伴侶 光明皇后。
天皇の遺品を東大寺に遺贈し正倉院宝物とされた方です。

「 我が背子と ふたり見ませば いくばくか
             この降る雪の 嬉しくあらまし 」  
                   巻8-1658 光明皇后
( この降り積もる雪の見事なこと。
      わが背の君と一緒に見ることができましたら、
      どんなに嬉しく思われることでしょう )

夫、聖武天皇が東国巡幸の旅にでた折に贈った歌。
一人の女性として詠い、可憐。 

正倉院に通じる道の小高い丘に建てられているこの歌碑は
正面に正倉院、右側は大仏殿に隣接しており、
いつまでも優しく聖武帝を見守っているようです。

   「 大仏殿 鴟尾(しび)の上なる 秋の雲 」  秋山花笠

      
     万葉集700  (帝王聖武) 完



   次回の更新は9月7日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2018-08-30 10:49 | 生活

万葉集その六百九十九 (あいの風)

( 雨晴海岸から立山連峰を臨む   高岡市)
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( 能登の千枚田 )
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(能登の海 )
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( 能登の海にはあゆの風吹く )
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  万葉集その六百九十九 (あいの風)

テレビ放映で「俳句ランキング プレバト」という人気番組があります。
各界有名人が自作の俳句を披露し、夏井いつき先生の添削よろしきをえて、
それぞれの順位を決定し、名人、素人など格付けを競う。
先生と生徒のやり取りが面白く、また、なかなか勉強になる内容です。

  「 降り立ちて 夜のしじまに あいの風 」  柴田理恵

見事1位になり特待生に昇格した秀句。
よくぞ「あいの風」という季語を見付けてきたものだと感心することしきり。

夏井先生は「地域性をもつ日本海沿岸の独特の夏の季語」と的確な説明を
されていましたが、「あいの風」(あゆの風ともいう)の「あい」(あゆ)とは
どのような意味をもつ風なのでしょうか?

それが、なんと!1300年も前に大伴家持が詠っているのです。

「 東風(あゆのかぜ) いたく吹くらし 奈呉(なご)の海人(あま)の
     釣りする小舟(をぶね) 漕ぎ隠る見ゆ 」 
                           巻17-4017  大伴家持

( あゆの風が激しく吹くらしい。
 奈呉(なご)の海人たちの釣りする船が波間にゆらゆらと見え隠れするよ )

注記に「東風(あゆのかぜ) 越の国ことばをいう」とあり、
当時の家持の任地、越中(富山県)の方言だったようです。

  奈呉: 高岡市から射水市にかけての海岸

今日、東風は「こち」と訓まれ、凍てを解き梅を咲かせる春告げ風。
春の季語とされていますが、「あゆの風」は夏の強い風、時には低気圧を伴う
暴風となる危険な風ともされ、「時化(しけ)東風」という言葉もあります。
民俗学者によると、この言葉はもともと瀬戸内海沿岸を主とし、
各地で使われた漁師用語だったそうです。

家持時代の越中の国は能登も含んでおり、山陰地方から吹く北東風が
北西風に転換する地点。
この沖の方から吹いてくる風を「あゆの風」(現在はあいの風)とよんでいたのです。

「 英遠(あを)の浦に  寄する白波 いや増しに
      立ちし き寄せ来(く) 東風(あゆ)をいたみかも 」
                          巻18-4093  大伴家持

( 英遠(あを)の浦に 打ち寄せる白波 この白波はいよいよ立ち増さって
 あとからあとから押し寄せてくる。
あゆの風が激しいからであろうか )

  英遠(あを)の浦: 富山県氷見市の北端、阿尾(あを)の海岸 
  いたみかも: 激しいからだろうか

「 東風(あゆ)をいたみ 奈呉(なご)の浦に 寄する波
     いや千重(ちへ)しきに 恋ひわたるかも 」 
                        巻19-4213 大伴家持

( あゆの風が激しく吹いて 奈呉の浦辺に幾重にも押し寄せる波
 その波のようにあなたのことをしきりに恋しく思い続けています)

註に「京の丹比家(たぢひけ)に贈ると」あり、大伴家から京都に嫁いだ
女性にあてた歌を恋文仕立てにしたもの。

大伴家と丹比家は極めて親しい間柄。
珍しい越中の風や地名を紹介する意図から歌に詠みこんだものと思われます。
奈呉の浦は当時、白砂青松の景勝地で万葉集に14首も詠われていますが、
今はその面影はなく、地名を残すのみです。

万葉集に詠われている「あゆの風」は4首(うち長歌1)あり、全て家持作。
よほど、この国言葉が気に入ったのでしょう。

越中方言の記録としては最古級のもので、もし家持が歌に詠まなかったら
季語として残ったかどうか?
極めて貴重な歌群なのです。

「 家持が 詠いしあゆの 風が吹く
          平成の夜 プレバトに 」     筆者

それでは「あゆ:あえ」とはどういう意味なのか?

山本健吉氏によると
『「あゆ」とか「あえ」という言葉にはもともと特殊な意味があり、
能登の珠洲(すず)市あたりで「あえのこと」といわれる古風な新嘗の祭りが
今も行われている。
霜月(11月)5日、今は新暦の12月5日に家々で田の神に新穀感謝の祭りを
やるのである。

この「あえ」には「饗」の字を当てている。
家のあるじがあたかも眼前に田の神があるように、猪苗代田へ行って神を
家の中に案内してきて、風呂に入れたり数々の饗応をしたりする。
その後、田の神は山に帰り、翌春2月5日に田の神迎えを行い、
これもあえのことと云っている。

 この「あえ」と同じ意味らしい。
あゆ(あえ)の風とは、沖から珍宝をもたらす風なのである。
風によって浜辺に多くの魚介類や海藻などの食物や、木材その他の
漂流物をも吹き寄せるのである。

船が寄ることも、それが財宝を落としていくもので、寄り物の一種だった。
だから、強吹き(こわぶき)であるほど、多くの珍宝をもたらすのである。
 昔は遠洋漁業などはなかった。
ひところの北海道の鰊漁のように浜辺に群来(くき)して寄せてきたものを
拾えばよかった。 

そういう古い風の名がいまだに生きていて、漁民たちの生活に中に
使われているのである。
それはまた、船乗りたちにとっては冬の季節風が終わった合図となり、
あいが吹き出す頃から、港々の船の往き来が頻繁になってくるのである。』
                       (ことばの歳時記 文芸春秋社 要約 )

「 あいの風 松は枯れても 歌枕 」  角川源義
  
          万葉集699(あいの風)完



         次回の更新は8月31日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2018-08-23 18:27 | 自然

万葉集その六百九十八 (浜風)

( 瀬戸内海の朝 )
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( 稚内から利尻富士を臨む )
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( 安房鴨川  千葉県)
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( 江の島 )
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万葉集その六百九十八(浜風)  

万葉集で詠われている風は180首余、そのうち秋風が圧倒的に多く50首。
他は朝風、神風、春風、東風、港風、湖風、川風、横風、沖つ風、南風、
松風、浜風、比良山風、伊香保風、佐保風、明日香風などさまざまな風が
登場します。

「浜風」は「浜に吹く風、浜から吹き寄せる海風」という気象用語のほか、
大相撲年寄名跡、船名、JRの列車名などにも見られるのは、
爽やかな語感が好まれたのでしょうか。

万葉集の「浜風」は4首。
いずれも旅愁を感じさせる歌ばかりです。

「 淡路の 野島の崎の 浜風に
        妹が結びし 紐吹き返す 」 
                     巻3-251 柿本人麻呂

( 淡路の野島の崎、船から港に降り立てば、
 心地よい浜風が吹いてきた。
 その浜風が旅立ちの時に航海の安全を祈って愛しい妻が
 結んでくれた着物の紐を、はたはたと吹きひるがえしている。)
 
瀬戸内海を旅した時に詠った8連作の中の1首です。

難波から西に向けての旅の途中、淡路島の野島での歌。
大阪湾と播磨灘の境、明石海峡の早い潮流を通り過ぎて最初の船泊。
ようやく最初の難関を無事通過することが出来たという安堵と共に、
故郷大和から遥かに遠ざかってしまった寂寥感を感じている作者。

ふと、折から風が吹き抜け、妻が結んでくれた旅衣の紐がひるがえった。
当時の旅、とりわけ船旅は危険がいっぱい。
妻が自分の魂を込めて結んでくれた紐。
あぁ、妻のお守りのお蔭でやっと無事に着いた。

それにしても今ごろ、どうしているだろうか。
まだまだ旅が続くが、無事を祈ってくれよ。と呟く。

古の人にとって浜風は単なる潮風ではなく、魂を運ぶ使者なのです。

  「 我妹子(わぎもこ)を 早見浜風 大和なる
           我れ松椿 吹かずあるなゆめ 」  
                      巻1-73  長皇子

( 我が妻を早く見たいと思うその名の早見浜風よ、
 大和で私を待っている松や椿、そいつを吹き忘れるでないぞ。
  決して 。)

作者は天武天皇皇子。
文武天皇難波行幸の折の宴席での歌です。

 早見に「早く(妻)を見たい」 
 松に「待つ」、
 椿の「つば」に「妻」をかけています。

 ゆめ:決して
 早見浜風:大阪住吉あたり(早見)を吹く浜風

作者は言葉遊びが好きだったらしく、技巧をこらしながら
望郷の思いを述べています。
大和から難波までそう離れていないのに、古代は徒歩の旅。
険しい山々も越えなくてはなりません。

「 浜風よ 私を待つ妻に伝えてくれ。
  もう少しの辛抱だと 」

「あさりすと 磯に棲む鶴(たづ) 明けされば
         浜風寒み  己妻(おのづま)呼ぶも 」 
                            巻7-1198 作者未詳

( 餌をあさろうと 磯に居ついている鶴。
 その鶴も明け方になると 浜風が冷たいので
 自分の妻を呼び求めて鳴いているよ )

当時は全国いたるところで鶴が見られたようです。
妻呼ぶ声に自分自身の気持ちを重ねている作者。
しみじみとした寂寥感、旅愁を感じさせる1首です。

古代の人達が詠った浜風は今日我々が感じるニユーアンスとは
かなり違っていたようです。

海が無い奈良の都の人たちにとって、海風に吹かれるのは遠く離れた旅先。
特に、難波から九州、新羅、唐への長い船旅は生還を期し難い決死行。
愛する家族に再び会いまみえることが出来るかどうか?
そのような気持ちが風を詠む歌にも滲み出たのでしょう。

 「 浜風や 球(たま)は流れて 右左(みぎひだり) 」  筆者

今風の「浜風」といえば「甲子園球場」
それは、海から吹き上がり球場のライトからレフトに流れる風。
ライト方向に高く上がった打球が押し戻されたり、
レフト方向に舞い上がった打球が風に乗ってスタンドイン。
選手泣かせの気まぐれ風は夏に多く、100年来の甲子園名物なのです。

さぁ、今日も熱闘甲子園を観戦するとしましょうか。

 「 浜風や 球(たま)見失い 泣く球児 」  筆者



        万葉集698 (浜風) 完


        次回の更新は8月24日(金)の予定です。
 

by uqrx74fd | 2018-08-16 18:17 | 自然

万葉集その六百九十七 (雲の峰)

( 美幌峠  北海道網走郡 )
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( 雲の峰  山辺の道 奈良 )
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(  南アルプス連峰 )
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( 三輪山:正面  巻向山 :左側 )
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万葉集その六百九十七(雲の峰)

 「雲の峰 立つに崩るる こと早し 」   稲畑汀子

「雲の峰」という語の由来は中国の陶淵明の詩「四時(しいじ)」にみえる
「夏雲奇峰多し」によるものとされています。

日ざしの強いときの上昇気流によって生じる積乱雲のことで、またの名は入道雲。
夏歌の格好の景観ですが、古のやんごとなき堂上貴族にとって、
むくつけき雲は興を引かなかったのか、歌語として定着したのは
元禄時代以降だそうです。

万葉人はそのような雲を「立てる白雲」と詠いました。

「 はしたての 倉橋山に 立てる白雲
    見まく欲(ほ)り 我がするなへに  立てる白雲 」  
                           巻7-1282 柿本人麻呂歌集

( 倉橋山に むくむくと湧きたっている白雲よ 。
見たいと思っていたときに
 ちょうど立ち昇った雲よ。
 懐かしいあの人を偲ばせる白雲よ。)

はしたて: 梯子のことで高床式の倉に上る階段、倉にかかる枕詞
倉橋山: 奈良県桜井市の音羽山か。山の辺の道から臨める。

この歌は旋頭歌といい五七七.五七七を基本形とし、
もとは問答の掛け合いに由来します。

かって愛した女性との思い出の場所。
その面影を雲に見たいと思いつつ空を眺めていたら、
雲が湧き上がってきたと感動しています。

古代の人にとっての雲は、大切な人を偲ぶよすが。
旅に出ては故郷の方角に向かって「雲よ俺は元気だと伝えてくれ」と祈り、
恋人と離れている乙女は、毎日雲に向かって「あなた」と
呼びかけていたのです。

「 穴師川(あなしがわ) 川波立ちぬ 巻向の
     弓月が岳に   雲立ちわたる 」  
                  巻7-1087 柿本人麻呂歌集

( 穴師の川に、今しも川波が立っている。
 巻向の弓月が岳に雲が湧き起っているらしい)

「 あしひきの 山川の瀬の 鳴るなへに
      弓月が岳に 雲立ちわたる 」 
                       巻7-1088 柿本人麻呂歌集

( 山川の瀬音が高鳴るとともに、 弓月が岳に雲が立ちわたっている)

川音を聞きながら歩いていると、一陣の風が吹きわたり急に波音が高くなった。
ふと上を見ると雲がぐんぐん大きくなり動いていく。
まさに驟雨が襲い掛からんとする状態。

「鳴るなへに」とは鳴るとともにという意味で、聴覚から視覚へ移り
また視覚から聴覚へと動的な変化を見事に表現しており、
その堂々とした力感と格調の高さは万葉名歌中の名歌。
作者は人麻呂と、ほぼ断定されています。

以下は伊藤博氏の解説です。

「 山と川が呼応して動き出した一瞬の緊張を荘重な響きの中に託した
  見事な歌である。
  響き渡る川音を耳にしながら、山雲の湧き立つのを見ている。
  作者は穴師の川をさかのぼって、弓月が岳に近く迫っているのであろう。
  一気呵成、鳴り響く声調の中に山水の緊張関係は更に深められ、
  躍動する自然の力は神秘でさえある。
   弓月の山水はこうして永遠の命を確立した。」 (万葉集釋注4)

 「 あをによし 奈良の都にたなびける
        天の白雲 見れど飽かぬかも 」  
                           巻15-3602 作者未詳

( きらびやかな奈良の都に棚引いている天の白雲
 この雲は見ても見ても見飽きることがありませんね )

遣新羅使人が旅の途中で古歌として披露したもの。
海原の彼方に湧きあがっている雲を眺めながら、懐かしい故郷を思い出す。
瞼に浮かぶ赤や緑の色彩鮮やかな都の大極殿や朱雀門
青空に棚引く白雲。
色彩感にあふれ、しみじみとした郷愁を感じさせる1首です。

 「 雲の峰 いくつ崩れて 月の山 」  芭蕉

「 奥の細道の旅の途中、月山(がっさん:山形県)に登り、頂上の小屋で泊まる。
日が暮れると、炎天にそびえていた、いくつもの雲の峰がみな崩れ果てて、
今、芭蕉たちのいる月山をほのかな月の光が照らしている。」
                              ( 長谷川櫂 季節の言葉 小学館より )

            月の山:月山と月が照らす山を掛けている



          万葉集697. 雲の峰 完


       次回の更新は8月17日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2018-08-09 18:12 | 自然

万葉集その六百九十六 (立秋の七夕)

( 仙台七夕は8月に開催される )
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( 古式豊かな模様  同上 )
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(  斬新な模様も  同上 )
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( 月の船  上田勝也  奈良万葉文化館蔵 我が国では牽牛が織姫のもとへ)
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( 月の船 藤代清二 中国伝説では織姫が牽牛のもとへ )
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   万葉集その六百九十六 (立秋の七夕)

我国の7月7日、七夕節会の記録は持統天皇の691年が最古とされています。
現在の8月上旬、立秋の頃、天皇列席のもと公卿以下が参列して宴を賜り、
朝服を下される宮廷儀礼でした。

さらに734年、聖武天皇の時代になると、7月7日に相撲を奉納し、
その夕方、文人に七夕の歌を詠ませる行事が定着し、相撲と七夕の節会を
同じ日に行ない、五穀豊穣、国土繁栄を祈ったのです。

一方、民間では古くから夏秋の行き会いの時期に水辺に掛け作りにした棚の上で
遠来のまれびと神の訪れを待って機(ハタ)を織るタナバタツメの習俗がありました。
「タナバタツメ」とはタナ(横板)を付けたハタ(機)で布を織る女(ツメ)の意です。

偶然にも中国には女子が機織り等の手芸で巧みになる事を祈る
乞巧奠(きこうでん)という古来の行事がありました。
さらに7月7日の夜、織姫星が天の川を渡って牽牛星に逢うという
空想豊かな恋物語を遣唐使(山上憶良?)が帰国後、伝えたところ、
このロマンティクな伝説は、たちまち人々の心をとらえ、かつ魅了しました。

そして我国古来の「タナバタツメ」に中国伝来の七夕という字を当て
「タナバタ」とよんだのです。

万葉集で「天の川」を詠ったものは130首余もありますが、
中國の物語と違うところは2つ。

我国では通い婚の風習があったため、牽牛が織姫のもとに通う。
( 中国では織姫が牽牛のもとに通う )

いま一つは、空想の物語を現実の自分の身に置き換えて詠う、
そう、柿本人麻呂、山上憶良らが天上の物語を一気に庶民のものとしたのです。

「 天地(あめつち)と 別れし時ゆ 己(おの)が妻
          しかぞ離(か)れてあり  秋待つ我は  」 
                        巻10-2005 柿本人麻呂歌集

( 天と地と別れたはるか遠い時代からずっと
 わが妻とこのように別れ別れに暮らしていながら
 ひたすら秋が来るのを待っているのだ。この私は。)

 当時は男性が女性のもとに通うのが習い。
 しかも、月が出ている間に訪れ、夜が明けぬ間に帰る。
 そう頻繁に通えるものではありません

「 渡り守  舟早(はや)渡せ 一年(ひととせ)に
         ふたたび通ふ 君にあらなくに 」
                  巻10-2077  作者未詳

( 渡し守よ 舟を早く岸に着けて下さいな。
 1年のうちに2度も通ってこられる方ではないのですから。)

今か今かと待ち続ける織姫は現実の私。
祈るような気持ちで詠っています。

「 天の川 相向き立ちて 我(あ)が恋ひし
        君来ますなり  紐解き設(ま)けな 」 
                           巻8-1518 山上憶良

( 天の川、この川に向かい立ってお待ちしていました。
いよいよ、愛しいあの方がお出でになるらしい。
さぁ、衣の紐を解いてお待ちしましょう。 )

万葉集で年代がはっきりしている最初の七夕歌とされています。
この「紐解き設(ま)けな」で、天上の物語が一気に現実のものになりました。
7月7日は男が女を訪ね、相睦む日になったのです。

 「 恋ふる日は 日(け)長きものを 今夜(こよひ)だに
            ともしむべしや  逢ふべきものを 」
                巻10-2079  作者未詳

( 恋焦がれた日が随分長かったんだもの、せめて今宵だけは
 飽き足りない思いをさせないで。
 今夜は誰にも遠慮なく逢うことが出来る日なのだから 。)

        ともしむべし や: 「物足りなく思わせる」の意 「や」は反語

「 ただ今夜(こよひ)  逢ひたる子らに 言(こと)どひも
          いまだ せずして さ夜ぞ明けにける 」
                       巻10-2060  作者未詳 

( 年にたった一夜の今宵。
 やっと逢うことができた愛しい子と、まだ満足な言葉も
 交わさないうちに夜が明けてしまった。)

久しぶりにお互い心ゆくまで抱き合い話をする間もなかった。
無常にも夜明けが近づいてくる。
そして別れの時間です。                 

 「天(あめ)の海に 雲の波立ち 月の船
          星の林に  漕ぎ隠る見ゆ 」  
                    巻 7-1068  柿本人麻呂歌集

舟に乗って帰ってゆく愛しい人。
空を見上げると、煌々と輝く三日月。
あたかもあの人を乗せて行く舟のよう。
雲の波、きらめく星の林。

あぁ、次第に遠ざかって行く。
さようなら、また会う日まで。

 「 七夕や 逢えばくちびる のみとなる」  水原秋桜子

七夕行事は夏の7月7日に行う地方も多いですが、本来は初秋のもの。
季語も秋に分類されております。
立秋、この時期になると夜空が澄みはじめ星もさやかに見えるのです。
 
  「 星合(ほしあひ)の 夕べすずしき 天の川
              紅葉の橋を  わたる秋風 」 
                       藤原公経  新古今和歌集

( 七夕の夕べは涼しく、 天の川に架けられた もみじの橋を
    秋風が涼やかに吹きわたるよ )

古代、機織りの上達を願って行われた七夕行事は、次第に拡大解釈されて
様々な願い事を星に祈る行事に変わり、江戸時代、庶民の間に
手習いが広まると、色とりどりの短冊に願い事を書いて笹竹に飾るようになり
現在に至っています。

  「 七夕や 秋を定(さだむ)る 夜の初(はじめ)」 芭蕉

 今年の立秋は8月7日。
 間もなく朝夕涼しい風が吹きはじめることでしょう。


         万葉集696(立秋の七夕)  完


         

       次回の更新は8月10日(金)の予定です。
 

by uqrx74fd | 2018-08-02 11:09 | 生活