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万葉集その七百三十 (花は桜)

( 吉高大桜  千葉県印旛村 )
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( 京都御所御苑 )
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( 千鳥ケ淵  東京 )
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( 浜離宮庭園  東京 )
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万葉集その七百三十(花は桜)

山本健吉氏によると

  『 花といえば桜だが、その時期によって
    「初花、花、残花、余花」という季語がある。
    「初花」は3月、「花」は 4月上中旬、
    「残花」4月中下旬 「余花」5月。

「初花」とはその春に初めて咲く花のことであり、彼岸桜は早く咲くが
その土地々々によって、必ずしも品種を限定していう必要はない。
暖かい伊豆や房州は花が非常に早い。
花を待つ心が深いから「初花」を賞美することも深い。

「残花」は春も末の頃に咲き残った桜の花である。
八重桜は一重桜よりも遅いが、これも必ずしも八重と限ったことではない。
「遅桜」という言葉もあるが、「残花」のほうがもっと寂しい語感がある。

「余花」は初夏になって、やや寒いところや高い山などに、
遅れて咲いている桜の花である。

「残花」と「余花」の区別は、それこそ俳諧上の約束であって
その語感を微妙に感じ分けた結果である 』
                          (日本の名随筆 花 作品社 より )

万葉人はそのような言葉の区別など知る由も無く、蕾の状態を「ふふむ」
「初花」を咲き初(そ)める、満開を「今は盛り」「咲きにほふ」
そして、「散りゆく」と名残惜しそうに詠っています。

「我が背子が 古き垣内(かきつ)の 桜花
      いまだふふめり 一目見に来(こ)ね 」 
                        巻18-4078 大伴家持

( 懐かしい貴方がおられた元の屋敷の桜の花。
     その花はまだ蕾のままです。
     間もなく咲きますので、一目見にお出で下さい。)

越中国司 家持が以前同じ職場で仕事し現在は越前赴任中の大伴池主宛に
送ったもの。
二人は歌を通して生涯堅い絆で結ばれていました。

「 春雨に 争ひかねて わがやどの
     桜の花は 咲きそめにけり 」 
                        巻10-1869 作者未詳

        ( 我が家の庭の桜は、春雨に逆らいかねて
          ようやく咲き始めました。)

当時、春雨は開花をうながすものと考えられていました。
「咲き初め」とは美しい言葉、蕾から初花への段階です。

「 見渡せば 春日の野辺に 霞立ち 
        咲きにほへるは 桜花かも 」 
                    巻10―1872 作者未詳

       ( 春日野に霞が一面に立つ中、輝くばかりに色美しく咲く桜は今真っ盛りです)

山野一面の桜。
春霞が立ち、桜か霞か判別しがたい。
朧桜とでもいうような景色でしょうか。

「 桜花 時に過ぎねど見る人の
       恋の盛りと 今は散るらむ 」 
                     巻10-1855 作者未詳

        ( 桜の花は、まだ花の時節が過ぎ去ったわけでもないのに
          見る人が惜しんでくれる今が盛りだと思って一斉に散るのであろうか。)

満開の桜が野山を覆い、埋め尽くす。
ところが、ある時点になり、一陣の風が吹くと一斉に散り始めます。
桜はまるで今こそが散りどきと悟っているかのように。
流れるような花吹雪、まさに夢見心地の境地です。

  「 吉野山 こずえの花を 見し日より
           心は身にも そはずなりにき 」  西行 

 桜の魅力に浮かれ出て、心がさまよい行くさまを詠った名歌です
 
西行がこよなく愛した桜。
ところが万葉集に吉野の桜歌が一首も見えません。
当時、山桜の木があったことは間違いなく、「春に花咲く」の歌を
桜とみなすことは出来ますがそれにしても不思議なことです。

吉野の桜史を紐解いてみますと、今から1300年前、
当時の山々には神が宿るとされていました。
のちに修験道の開祖「役君行者」(えのきみ おづぬ)が山深く分け入り、
千日の難行苦行の果てに憤怒の形相も恐ろしい蔵王権現を感得。
そして、その尊像こそ濁世の民衆を救うものだとして桜の木に刻み、
それを山上ヶ岳と吉野山に祀ったと伝えられています。

以来、吉野の桜は御神木とされ、信仰の対象として献木という行為が
延々と続けられました。
それが積りに積もって今日の3万本、日本一の桜の名所に。
吉野の桜は「花見」の為ではなく、信仰の対象として植えられたのです。


     「 花吹雪 浴びてしづかに 昂奮し」   神田敏子


         万葉集730(花は桜)完

     

      次回の更新は4月6日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2019-03-28 15:39 | 植物

万葉集その七百二十九 (若返り)

( 養老の滝  岐阜県 )
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( 養老渓谷  千葉県 )
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( 薬井戸のご神水  狭井神社:三輪山登山口があり大神神社の摂社 奈良)
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( お水取りはお松明とも。元々は修行僧を先導するためのものだった。 奈良二月堂
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万葉集その七百二十九(若返り)

年を経ると共に老いを感じる日々。
目じりにしわが目立ち、皮膚はたるみ運動神経は衰え、呆けはじめる。
「あぁ!若返りたい」と思うのは今も昔も同じ。
万葉人は「若返り」のことを「変若(をつ)」と云っていました。

そして満ちては欠け、欠けては満つる月を見てその命が永遠のものであり、
そこには若返りの水、すなわち変若水(をちみず)が存在すると信じていたのです。
然しながら、月は余りにも遠くそれを得ることは不可能。
そこで、身近に手に入れることができる場所を各地に求め、
その結果「養老の滝」や「お水取り」など数々の聖水伝説が生まれました。

「 我妹子(わぎもこ)は 常世の国に 住みけらし
      昔見しより 若変(をち)ましにけり 」
                                巻4-650 大伴三依(みより)

( あなたは不老不死の理想郷である仙人の世界に住んでおられたのでしょうね。
  昔お目にかかった時よりずっと若返られましたよ )

大宰府勤務の作者が都に転任となり、旧知の大伴坂上郎女に
挨拶に出かけた時の歌。
天平を代表する美女、郎女も大げさな褒め言葉とは感じながら,
悪い気はしなかったことでしょう。
今でも「いつもお若いですね」と挨拶されると嬉しいことです。

次の歌は宴席での掛け合い。
ある男が心憎からず思っている娘子を口説いたところ、娘は

「 我がたもと まかむと思はむ ますらをは
       をち水求め 白髪(しらか)生ひにたり 」 
                         巻4-627 娘子(をとめ)

〈  私の腕(かいな)を枕に寝たいと思っておられる丈夫(ますらお)さま。
   若返りの水でもお探しにいかれたらいかが?
   御髪(おみぐし)が白くなっておりますよ 。〉

すかさず男が応える。


「 白髪生ふる ことは思わず をち水は
      かにもかくにも 求めて行(ゆ)かむ 」 
                       巻4-628 佐伯赤麻呂

〈 丈夫(ますらお)たるもの、白髪が生えていることなど何とも思っていませんが
  折角のお奨めですから、若返りの水を探しに行ってまいりましょう。
  でも、首尾よく見付けたら、そのときはあなたの腕(腕)を枕にして
  寝てもよいでしょうなぁ。〉

「をとめ」という言葉は「をつ(変若)」と「女(め)」からなる語で
「をつめ」が訛ったものとされています。
また、「をとめ」の漢字表記は「未通女」が多く、未婚のうら若い処女をいう
そうですが、万葉人もなかなか乙なことをやりますなぁ。

「 朝露の 消やすき我(あ)が身 老いぬとも
        またをちかへり 君をし待たむ 」 
                      巻11-2689 作者未詳

( 朝露のように 今にも消え入りそうな我が身。
そんな私の命ですが、どんなに老いさらばえようとも
また若返ってあなたをお待ちいたしましょう。)

男が急に心変わりして別れたいと云い出した。
いくら引きとめても良い返事がない。
ついに諦め、別れ際に泣く泣く詠う健気な女性です。

「 いにしへゆ 人の言ひける 老人(おいひと)の
        若変(をつ)といふ水ぞ  名に負ふ瀧の瀬 」  
                         巻6-1034 大伴東人(あづまひと)

( これが遠い昔から「老いた人を若返えらせる」と言い伝えられている聖水ですぞ。
 さすがに名にそむかぬ清々しい滝の瀬であることよ!)

740年、聖武天皇が美濃の国(現岐阜県)に行幸された時、お供した作者が
この地に伝わる美泉と養老の滝にまつわる故事を踏まえて詠ったものです。

その昔、この地に住む木こりが山奥で酒の匂いがする水を見つけた。
早速、家に持ち帰って老いた父親に飲ませたところ、
なんと! 白かった頭髪が黒くなり、顔つやも若々しくなった。
その話を聞いた元正天皇は、早速当地を訪れて水を浴びたところ、伝説通り
肌が滑らかになり、痛むところも直ったので大いに喜ばれ、勅を発して
元号を「養老」と改めたそうな。(717年)

若水を汲むのは元々立春の行事でした。
平安時代、霊水を管理する主水司(いもとりのつかさ)が前もって封じておいた
井戸から水を汲んで天皇の朝餉(あさげ)に奉っていましたが、次第に朝儀が廃れ、
元旦に汲む習慣に変わって民間に浸透していったようです。

「若水」という言葉には、邪気を払うと同時に、不老長寿への期待も
込められているのでしょう。

奈良のお水取りも3月14日に終わり、いよいよ春到来です。

「 如月(きさらぎ)を 奈良いにしへの 御ほとけに
          浄(きよ)き閼伽井(あかい)を  汲む夜にぞあふ 」 中村憲吉

           閼伽井:聖なる井戸に湧く聖水
ご参考

「 お水取り 」について

「 お水取りは東大寺二月堂で行われる仏教行事で、正式には修二会(しゅにえ)といい、
  目的は、仏の前で罪過を懺悔すること(悔過:けか)。
  心身を清めた僧11人(練行衆:れんぎょうしゅう)が十一面観音の前で宝号を唱え、
  荒行によって懺悔し、あわせて天下安穏などを祈願する。

  天平勝宝4年(752)に始まり今年(2019)で1268回、天災や戦火に見舞われたにも
  かかわらず1度も中断されたことがないので、「不退の行法」とよばれる。

  現在3月1日から14日間にわたっておこなわれ、
  3月13日の午前2時を期して、二月堂のほとりの良弁杉の下にある
  閼伽井屋(あかいや)のお香水を汲み取り、本堂に運ぶ儀式が行われる。

  この夜、井戸の中には遠く若狭の国から地下水道を抜けて送られた聖水が
  湛えられていると信じられており、この水を1年間の仏事に供するため
  壺に汲み取っておくのである。

  籠りの僧が大松明を振りかざしつつ石段を駆けのぼり、二月堂の回廊に
  これを打ち据える行は壮観で、庇(ひさし)を焦がさんばかりの炎から堂下の
  群衆に火の粉が舞い散り、浴びると無病息災で過ごせると信じられている。

  なお、若狭国から聖水が送られる由来は、昔、遠敷(おこう)という
  若狭の神様が魚を採っていて、二月堂の参集に遅れたお詫びとして、
  二月堂のほとりに清水を湧き出させ、観音様に奉ったとの言い伝えによる。 

  お水取りが済むと、奈良の春が本格的に到来すると云われている。 」

    「 飛ぶ如き 走りの行も お水取 」  粟津松彩子


           万葉集729(若返り) 完


        次回の更新は3月29日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2019-03-21 17:46 | 生活

万葉集その七百二十八(皇位継承を祝う木:栂)

( 栂:つが の大木  栗林公園  高松市 )
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( 栂の新葉  奈良万葉植物園 )
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( 吉野山山頂から  奈良 )
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(  三船山と吉野川  奈良 )
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万葉集その七百二十八 (皇位継承を祝う木:栂)  

栂(つが)はマツ科の常緑高木で樹高30m胸高直径1m以上にもなる
我国特産種です。
福島県から屋久島に至るまでの山中に自生し、晩秋マツ科特有の
黄色い花粉を飛ばします。
モミと混生していることが多い樹木で、材質が固いので建築材、パルプ材のほか、
樹皮に含まれるタンニンが漁網の染色に使われるなど有用の木です。

「栂」と云う字は国字、中国でこの木にあたるものがなかったので、
オリジナルを創らなければならなかったようですが、「木」+「母」としたのは
よほど大切な木とされたからなのでしょうか。

万葉集では5首。すべて長歌ですが、そのうち4首が畝傍山、奈良山、
明日香、吉野など大和の地名が詠みこまれており、当時この地一帯に
大樹が育成していたことが窺われます。(残り1首は越中)

次の歌は723年に元正天皇が吉野に行幸された時、皇太子、首皇子(おびとのみこ:
(のちの聖武天皇)の即位を予祝するものです。

まずは訳文から。

「 み吉野の激流のほとりの三船の山に
  瑞々しい枝をさし延べて
  生い茂っている栂の木

  その栂の木の「つが」という名のように次々と
  代々の天皇が万代の末までもお治めになる

  ここ、み吉野の秋津の宮は 国つ神の神々しいせいか
  まことに尊く、国柄が立派なせいか 誰もが見たいと心惹かれる。

  山も川も、清く爽やかであるので、
  なるほど、遠い神代以来 
  ここ み吉野を
  宮どころと定められたのであるらしい。 」     巻6-907 笠 金村

以下は詠み下し文です。

「 滝の上の 三船の山に    
  瑞枝(みづえ)さし       
  繁(しじ)に生ひたる 栂の木の 
  
  いや継ぎ継ぎに 万代(よろづよ)に 
  かくし知らさむ み吉野の
  秋津の宮は 神(かむ)からか
  貴(たふと)くあらむ 国からか
  見が欲しくあらむ      

  山川を清み さやけみ 
  うべし神代ゆ
  定めけらしも 
                      巻6-907 笠 金村

一行づつ訓み解いてまいりましょう。

「 滝の上の 三船の山に 
   
       (み吉野の)激流のほとりの三船の山に

「 瑞枝(みづえ)さし」 
      
       瑞々しい枝をさし延べて
  
 「 繁(しじ)に生ひたる 栂の木の 」

  
      生い茂っている栂の木

「 いや継ぎ継ぎに 万代(よろづよ)に 」

     その栂の木の「つが」という名のように次々と

 「 かくし知らさむ み吉野の 」

         今、代々の天皇が治めている 吉野 
            「かく」:今 「し」:強調を表す
            「知らす」 領有する

 「秋津の宮は 神(かむ)からか」

        ここ、み吉野の秋津の宮は 国つ神が神々しいせいか

         「秋津」は文末参照。

 「 貴(たふと)くあらむ 国からか」

     まことに尊く国柄が立派なせいか

 「 見が欲しくあらむ  」
    

       誰もが見たいほど心惹かれる

 「 山川を清み さやけみ 」

      山も川も清く清らかであるので

  「うべし神代ゆ 」

         なるほど 遠い神代以来
     
  「定めけらしも 」

           ここ み吉野を 宮処と 定められたのであるらしい

                  巻6-907 笠 金村



引き続いて反歌

「 年のはに かくも見てしか み吉野の
       清き河内(かふち)の  たぎつ白波 」 
                           巻6-908 笠 金村

     (  来る年ごとに こういうふうに見たいものだ
        ここ み吉野の清らかな河内の渦巻き流れる白波を )

「 山高み 白木綿花(しらゆふばな)に 落ちたぎつ
            瀧の河内は 見れど飽かぬかも 」 
                        巻6-909 笠 金村

    ( 山が高いので 白く清い木綿花となってほとばしり落ちる滝
     この滝の渦巻く河内は 見ても見ても飽きることがない )

吉野は天武皇統発祥の地。

当時、首(おびと)皇太子は19歳、天皇の見習い(朝政を聴く)を始めたばかりです。
持統天皇の子、草壁皇子が27歳で早世、世継ぎの文武天皇は即位したものの
わずか25歳で崩御、やむを得ず草壁の皇后が元明、その皇女、元正が女帝として
皇位を継承しながら首皇太子の成長を待ち、ようやくその実現にこぎつけようと
していました。
今回の行幸は前年亡くなった元明上皇の霊を鎮め、穢れを払い、翌年即位する
皇太子に吉野の聖なる魂を付着させ、天皇霊を全うさせることが目的です。

首皇太子の母と皇太子妃はともに臣下の藤原不比等の子。
血統を重んじる周囲の貴族、豪族の中には反対するものも大勢いたので、
即位には入念な根回しが必要と考えられたのです。

しかも、壬申の乱は天武が兄、天智の子、大友皇子を亡ぼしての継承で
あっただけに、その正当性を一層強調する必要がありました。

長歌に「つが」が詠いこまれたのも、聖樹とされている栂の類音をもって
「いや つぎつぎに」を導き出し、神武以来の皇統の連続の確かさを語る
意図があったようです。

  「 つがの木の しみ立つ岩を いめぐりて
         二尾に落つる 滝つ白波 」 伊藤左千夫

              「しみ立つ」 : 茂り立つ

皇統を寿ぐ木とされた「ツガ」は現在、庭園で観賞用としても植えられています。
美しく手入れされた大木は風格と品があり、万物の生命を司る生命の木でもありました。

  註:「秋津」について

   「秋津」は「蜻蛉」とも書き共に「とんぼ」の古名。
   「秋に多く出ずる」の意から「あきづ」に訛ったとされる。
    古代、蜻蛉(とんぼ)が多く飛ぶ時は豊穣のしるしと喜ばれた。

    日本書紀によると神武天皇が国見をして
    「蜻蛉(あきづ)の臀呫(となめ)の如くにあるかな」と言われたと伝えられる。
    「臀呫(となめ)」とは「とんぼ」の雄雌が尾をくわえ合い、
    輪を作って交尾をする様子をいい、山々に囲まれた美しい国の地形と
     豊饒をもたらす蜻蛉を重ねてイメージされたものと思われる。
    もともと大和の一地方を表わしていたが、やがて「秋津島」すなわち
     日本全体をいう言葉になった。


           万葉集728(皇位継承を祝う木:栂) 完



          次回の更新は3月22日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2019-03-16 17:10 | 植物

万葉集その七百二十七 (家持栄転)

( 大伴家持  万葉列車 JR奈良駅にて )
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( ダンディな大伴家持をイメージして描かれた  大山忠作  奈良県立万葉文化館収蔵 )
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(絵本: はじめての越中万葉 高岡市が子供の万葉普及のために企画
     文:高岡市万葉歴史館  絵:佐作美保  岩崎書店刊 )  画面クリック拡大できます
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( 藤代清二  群竹の風の音 家持  )
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万葉集その七百二十七 (家持栄転)

751年越中国司、大伴家持は少納言に昇進し都に転勤することになりました。
待ちに待った帰京、飛び上らんばかりの嬉しさ。
しかも、少納言といえば政権中枢に位置する要職です。
早速、離任入京の準備に取り掛かりますが、心残りは公私ともに
親しくしていた友、久米広縄が公用で都に赴いており不在だったことです。

彼に別れの挨拶をしないまま赴任せざるを得なり、やむなく留守宅に
手紙と歌2首を届けることにしました。

手紙に曰く
「 すでに6年の任期が満ち、はやくも転任の巡り合わせに
  遭うことになりました。
  ここに旧知に別れる悲しみは心の中に重くふさがり、
  涙を拭うこの袖は乾かすすべもありません。
  そこで悲しみの歌を2首作って、忘れはしないという我が胸の内を
  書き残しておきます。
  その歌は次の通りです。 」

「 あらたまの 年の緒長く 相見てし
    その心引き 忘れえめやも 」 
                            巻19-4248 大伴家持

( 長い年月の間 親しくお付き合い戴いた、そのお心寄せは
  忘れようにも忘れられません。)

「石瀬野(いはせの)に 秋萩しのぎ 馬並(な)めて
                 初鳥猟(はつとがり)だに せずや別れむ 」 
                             巻19-4249 大伴家持

    (石瀬野で 秋萩を踏みしだき、馬を勢揃いして、せめて初鳥猟だけでもと
     思っていたのに それすら出来ずにお別れしなければならないのか。
     まことに残念でなりません。)

         鳥猟(とがり): その年初めて行われる鷹狩
         石瀬野:富山県射水郡 (現、高岡市庄川石瀬一帯)

歌を託し、気持ちの整理が終わった出立の前日、越中官人による送別の宴が
伊美吉綱麻呂(いみき つなまろ)邸で催されます。

 「 しなざかる 越に五年(いつとせ) 住み住みて
     立ち別れまく 惜しき宵かも 」 
                      巻19-4250 大伴家持

( 都を離れて山野層々たる越の国に、5年もの間住み続けて
 今宵かぎりお別れしなければならないと思うと、
 実に名残惜しいことです。)

どういうわけか他の官人の歌が残されていませんが、思い出深い国に
惜別の情が深く滲み出ている1首です。

     しなざかる: 家持の造語で越の枕詞。 山野層々深くして美しく佳き国の意

翌日早朝の4時出立、彼を慕っていた官人たちが射水郡のはずれまで
見送り、林の中で宴の用意をしてくれました。

当時、親しい人が旅するとき、国境まで同行しそこで道中の無事を祈って
酒杯を交わすのが習い。

家持は謝辞を述べます。

 「 玉鉾の(たまほこの) 道に出で立ち 行く我は
       君が事跡(ことと)を 負ひてし行かむ 」 
                         巻19-4251 大伴家持

      ( たまほこのこの道に出で立ち、いよいよ旅行く私は
        あなたがたの数々の功績を、しつかりと背負ってまいりましょう。)

     玉鉾:道の枕詞 「玉」は「霊魂」
         「鉾」は三叉路や集落の入口に立てた鉾状の石の魔除け。
         道祖神や庚申塚などと関連するといわれる。

そして足取りも軽く、越前に向かます。
越前には家持の歌友、大伴池主が国司として赴任しています。
かっては越中で共に働き、頻繁に歌のやり取りをしていた親しき友です。

ところが、なんという僥倖。
都にいるとばかり思い、留守宅に手紙を託してきた久米広縄が
滞在しているではないか。
通信手段が飛脚便しかない時代、お互いに連絡が取れないままの偶然の出会い。
家持、広縄の驚きと喜びは如何ばかりだったことでしょう。

「 君が家に 植ゑたる萩の 初花を
    折りてかざさな  旅別るどち 」 
                   巻19-4252 久米広縄

    ( あなたの家の庭で育てている萩が季節に先駆けて咲きました。
      その初々しい花を手折って、挿頭(かざし)にしましょう。
      ここで散り散りになる旅人われらは 。)

ここでの君は大伴池主。
館の主人の風流、丹精に賛辞を呈し、三人共に喜び合う気持ちが
生き生きと詠われています。

 「 立ちて居て 待てど待ちかね 出でて来(こ)し
      君にここに逢ひ かざしつる萩 」 
                  巻19-4253 大伴家持

( 立ったり座ったりして、待っても待っても待ちきれずに旅立ってきました。
      そのあなたにここで逢い、ともにかざしている萩の花よ。)

三人の絆の固さを確かめ、友情よ永遠なれと声高らかに詠っている
姿が想像される一首。
三人心おきなく歓飲し、翌朝家持は都へ、広縄は越中へと旅立って
行ったのです。

  「 冬ぬくく 友愛を わが心の灯 」 飯田蛇笏



         万葉集727 (家持栄転)完

           次回の更新は3月17日(日)の予定です。

by uqrx74fd | 2019-03-07 17:01 | 生活

万葉集その七百二十六 (あぁ、転勤!)

( 梅花粧  鎌倉秀雄 奈良万葉文化館所収 )
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( 木簡に記録する官人 奈良万葉文化館 )
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( 西への道、生駒山は今でも石ころが多く険しい)
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( 生駒山 奈良から )
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  万葉集その七百二十六 (あぁ、転勤!)

672年の壬申の乱後、都が近江から奈良に遷(うつ)り律令制度が確立された結果、
朝廷の権威が急速に高まり、その支配圏は東北から九州,対馬へと、
北海道を除く全国一円に及びました。
都に勤務する役人は約1万人。
さらに、中央から各地に国司や役人が派遣され、地方採用したものも含め
現地勤務はその数約6000人に膨らんだと云われています。

大宰府や東北に防衛基地を設けて守りを固め、急ある時、中央との連絡を
迅速にする為、各地に駅馬を置き、狼煙(のろし)台などの通信網も整えるなど
人手はいくらあっても足りません。
貴族の官僚はのんびりと優雅な生活を送っていましたが、
ペイペイはいつの時代でも同じ、大忙しです。

次の物語は、駅馬を管理するために地方に派遣された役人、それも
新婚ホヤホヤなのに遠国勤務(摂津か)を命じられた若者の宮仕えの嘆きです。

「 昔、一人の男がいた。
  結婚式を挙げてから、いくばくも日が経っていないのに
  思いがけず駅馬(はやうま)を管理する役目(駅使)を命じられ、遠い国に
  派遣されることになった。
  宮仕えには ままならぬ規定があり、単身赴任で勤務期間およそ3年。
  可愛い妻とはいつ逢えるかも分からないまま出立した。

  残された妻は嘆き悲しみ、とうとう病に臥す身になってしまったが
  男は知る由もなかった。
  それから、数年を経た後、男はやっと帰還が叶い、お上への
  報告を無事に終えた後、すぐさま妻の許にやってきて
  顔を見たところ、あの美しかった顔は、げっそり痩せ、
  他人かと見間違えそうになっていた。
  男は悲しみ極まって涙を流し、歌を作って口ずさんだ。」

「 かくのみに ありけるものを 猪名川(ゐながわ)の
    奥を深めて 我(あ)が思へりける 」 
                           巻16-3804 作者未詳

   ( こんなにもやつれ果てて臥せっていなものを、私はこれと知らず
    猪名川の深い水底のように、心の底深く若く美しいそなたのことを
   思い続けていたのだった。あぁ!)

        「かくのみに」: 死別、変心など予想もしない事が起きたことを
                  知った時の失意を表す慣用句。
            ここではやつれ果てた妻の姿をさす。

        「猪名川」:  摂津(伊丹市)あたりを流れる川

        「奥を深めて」: 心の奥へ奥へと深めて思う心

  妻は、床に臥せりながら、夫の歌を耳にし、枕から頭を上げ、
  直ちに応じた。

「 ぬばたまの 黒髪濡れて 淡雪の
      降るにや来ます ここだ恋ふれば 」 
                       巻16-3805 作者未詳

      ( 黒髪も、しとどに濡れて、粉雪が降りしきる中をお帰り下さったのですか。
        私がこんなにもお慕いしていたので。)

 その日は雪が降る日であったようですが、夫の白髪を寓しています。

 さて、この歌は1首目の「かくのみに」 2首目の「淡雪」の意味を
  深く吟味すると味わいが がらりと変わります。

  まず1首目。 
  夫は新婚早々の美しい妻の顔を想像しながら一目散に家に着いた。
  ガラッと戸を開けて見ると、そこには似ても似つかぬ妻の姿。
  一瞬、がっかりしたという気持ちが生まれたのでしょう。
  その表現が「かくのみに」なのです。

  そして、気を取り直し、
 「あぁ、心労をかけて申し訳なかった。
  一瞬でもそのような気持ちを持ったのはすまなかった」
  と素直に反省した。

  その空気を察した妻は、自由にならない体を無理に動かし、
  居ずまいを正して枕から頭を上げ

 「 おかえりなさいませ。 長のお勤めご苦労様でした。
   あなた様も苦労なさったのですね。こんなにも白髪が増えて。」

   と応じたのです。

  伊藤博氏は次のような解説をされています。

  「 妻の歌に裏の意味を読み取ることが許されるならば、
   それはうれしさのあまり拗ねてみせた女の甘えである。
   やつれ果てた姿の妻であっても、妻の媚態を美しく表出したわけである。
   ことさら「枕より頭を上げて」一定の姿勢を作って応じたのであり、
   重病でありながら,寝ながら天井を仰いで応じたのではないのである。
   人々は遠く離れていかに変わり果てようと、夫婦はかくあらねばならぬと
   いうことを思いつつ、この話を伝えていったのではなかろうか。」
                                        (万葉集釋注8)

  「かくのみに」の言葉の裏にある、妻の姿に一瞬落胆した気持ち
  「淡雪」に見える夫に対する妻のいたわり

  2首に込められた男女の心理。
  歌の世界はなかなか奥深い。
  それにしても古の名も定かではない下級官人夫妻が
  このような歌のやり取りをしていたとは驚くべき教養の高さです。

  「 夢路には 足もやすめず 通(かよ)へども
          現(うつつ)に一目 見しごとはあらず 」
                          小野小町   古今和歌集

   ( 夢の中の通い路では、足を休めることなく、あなたの許に通って行きますが、
    現実にあなたを一目見た嬉しさほどではありません。 )

                 万葉集726 (あぁ、転勤)完


               次回の更新は3月8日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2019-03-01 00:00 | 生活