万葉集その四十二(夜の鶴)

「焼け野の雉子(きぎす) 夜の鶴」という言葉があります。

<野を焼かれた雉子(きじ)は我が身の危険を忘れて子を救おうとし、
巣ごもる鶴は自分の翼で巣の子を守る> 

ということから子を思う親の愛情の例えとされています

また「夜鶴(やかく)子を思う」という言葉もありは白楽天(白居易)の
「白氏文集」中の「五絃弾」という詩の一節に由来します。

「 旅人の 宿りせむ野に 霜降らば
    我(あ)が子 羽(は)ぐくめ 天(あめ)の鶴群(たずむら) 」

            巻9の1791 遣唐使随員の母


733年、多治比広成(たじひのひろなり)を大使とする遣唐使一行の船が難波を出港します。
当時 渡唐の船はしばしば難破し確実な生還は期しがたいものでした。
船にはこの歌の作者の最愛の一人息子が乗っています。

母は神に供物を捧げ大切な息子の無事を心を込めて祈り
( 旅の途中あの子の宿するところに霜が降ったら、どうか空飛ぶ鶴の群れよ
 私の息子をその暖かい羽で包んでやっておくれ) と詠います。

古代大和から難波への一帯は湿原地になっており、多くの鶴が棲息していました。
万葉人たちは旅の行き来に鶴が子供を可愛がる情景を幾度も見ていたのでしょう。

当時は船旅でも陸に上がり野宿をするのが習いです。

母親は一人息子が寒い野を行く場面を想像し、鶴が子をいつくしみ、抱きかかえるように
「我が子羽ぐくめ」と空行く鶴群(たずむら)に手を合わせて頼んでいるのです。

伊藤博氏は次のような温かい解説をされています。

「 母親としてまた女としてなしうる神祭りに精魂を傾けることで子の幸を
 祈るだけでは足らず、天の鶴群に呼びかけて鎮護を願っているところが痛ましい。

<我が子羽ぐくめ 天の鶴群> には我が身を鶴になして常に子の周辺に
いたいという母親の身の切るような愛情がにじみ出ている。

こういう歌を読むと子は母親にとって永遠の胎児であり分化を許さないその心情は
解説の言葉を寄せ付けないことを痛感せざるを得ない」 

                       (万葉集釋註五より) 

さらに伊藤氏は「ちなみにこの時の遣唐使は天平7年(735)3月10日に帰朝した。
むろん全員が無事であった保証も記録もない。帰り着いた人の中にこの母親の子が
存在しなかったことを想像するのは惨酷にすぎる」と結んでおられますが
楽天家の筆者は勿論、その息子は無事帰還し親子手を取り合って涙を流している
場面を想像しているのです。
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 10:21 | 動物

万葉集その四十一(バックギャモン)

シルクロードの面影を残すサマルカンド。
この地域は古くはソグデイアナと言いソグド人と呼ばれる人たちが住んでいました。
彼らはタクラマカン砂漠、天山山脈、パミール高原という厳しい道を辿り
4,000㎞も離れた唐にササン朝ペルシャの文物を運んで商売に励んでいました。

そして「匂ふがごとき今盛りなり」と詠われた天平時代の頃、これらの文物は
唐を経由して海を渡り奈良の都へ入ってきたのです。
奈良朝の人達はソグド人からもたらされたバックギャモンをすぐろく(双六)と
呼んでいました。

古代の双六は将棋や囲碁に似た盤上で二個のダイスを用いて
白黒十五の駒を敵陣に早く送り込んだ方が勝ちというゲームです。

「 一二(いちに)の目 のみにはあらず 五六三(ごろくさむ) 
       四(し)さえありけり 双六(すぐろく)の頭(さえ) 」

           長意吉麻呂(ながのおきまろ)  巻16の3827


この歌は意吉麻呂が宴席でまわりの人達から目の前にあるサイコロを
歌に詠めと囃されて作った即興歌です。

「サイコロの目は人間の目と違って一から六まであるぞ」と詠んだものですが

一二の後に何故三四五六と詠まないで順序を逆にしたのか未だに定説を得ません。

三四は赤目となっておりこれを強調するため(伊藤博)など色々な説がありますが

三重大学の広岡義隆教授が以下のようなユニークかつ楽しいお話をされておられます。

まずは歌の意訳です。
( 人間には一二と二つの眼があるがサイコロはそれだけではなく五六三とあり
 四(死)まであるよ。 こんな小さな双六のサイコロに。)

< 六面に彫られている目の数を詠んだだけではなく掛詞によって「死」まであるよと
驚いているのです。
あるいはゲーム上でも死(一回休み等の罰ゲーム)があったのかもしれません。
さらに第二句「のみにはあらず」の「ず」と第三句「五六三」の「五六」に
すごろく(ず五六)と題を詠みこんでいます。
歌学では隠題(かくしだい)と呼ぶ題を与えて歌に詠みこませる技法が万葉時代に
あったのです。
さらに この「すごろく」が詠みこまれていることを指摘したのは三重大学の女子大生で
これは大発見でした。>    

                     「万葉のこみち」より要約抜粋

この解釈ならば一二と続き五六三と順序を逆転させたのも必然だったと納得できます。

聖武天皇も双六を好み自らもダイスを振りました。

さらに曲水の宴(邸内の小川に酒盃を浮かべ詩歌が出来ると盃を取り上げて
飲む遊び)の席上、「歌を作らない者は別席で双六をおやりなさい」と
賭金銭三千貫を下賜されたという記録が残っています。

銭三千貫とは現在の金額にすると二億円以上になり、唖然とするばかりです。

バックギャモンのルールは易しく面白い上、二人で短時間でやれるので、
上は貴族から下は庶民まで爆発的な人気を呼びました。

中には借金してまで打ち込み、遂には土地、建物、妻さえも賭け、挙句の果てに
殺人、自殺、一家離散に枚挙暇なしの一大社会問題になり、とうとう689年朝廷は
双六禁止令を出します。

然しながらブームは収まらず再び754年厳罰を科す禁止令を出し、ようやく熱が冷め、
騒ぎがおさまったのです。

その後このゲームが復活するのは明治時代に再度海外から伝わってからになります。
奈良、正倉院には聖武天皇愛用の象牙製のダイス、琥珀や水晶で作られた碁石形の駒、
紫檀製木象眼や螺鈿の双六盤が残されており正倉院展で往時を偲ばせてくれています。

これらの宝物を拝観するたびに天皇が「エイヤァ-」とサイコロを振っている姿が
目に浮かび笑いがこみ上げてまいります。
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 10:20 | 生活

万葉集その四十(芹:春の七草)

万葉時代「春の七草」はまだ定まっていませんでした。
南北朝時代に四辻善成が「河海抄」で七種の草を選んだのが最初で、
その後歌道師範家として名高い冷泉家に次のような歌が伝えられました。

「 せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ 
すずな すずしろ 春の七草 」


日本人は大の野菜好きでありますが日本原産の野菜は極めて少なく、
芹、水菜、蔓菜(つるな) 蕗(ふき) 韮 茗荷 独活(うど) 三つ葉 
山芋 位しかなく、それもほとんど葉菜です。

菜とは「草の茎 葉根の食べられるものの総称」とされています。
数ある若菜の中でもとりわけ芹は我国栽培史上最も古く、
栄養価の高い野菜の一つで今日なお、ほとんど改良の手が
加えられていない昔のままの姿を持つ数少ない貴重な植物です。

万葉人は冬枯れの野菜不足の時期に雪間を分けて
萌えだしたばかりの野草を摘み集め栄養補給に励みました。

729年、葛城王(かつらぎのおおきみ)、後の左大臣橘諸兄は山背国
(やましろの国、現在の京都府南部)の班田使に任命されました。

班田使とは班田収受法に基づいて公民に田畑を与え租税を
徴収する超多忙の仕事です。

彼は忙しいながらも暇をみて心憎からず想っていた女官に
芹を摘んで歌と共に贈ります。

「 あかねさす 昼は田賜(たた)びて ぬばたまの
夜のいとまに 摘める芹 これ 」  
                   巻20の4455 葛城王


( 昼間は役所の仕事で大変忙しかったのだよ。
  それでも夜に何とか暇を見つけてやっと摘んできた芹ですぞ。これは! )

  「あかねさす」「ぬばたま」 :枕詞
  「昼は田賜びて」:賜ぶは賜るの約で天皇に代わって田を支給するので
             こう言ったもの
  「夜のいとま」:勤務時間後の余暇

芹を贈られた女官は次のような歌を返します 

「 ますらをと 思えるものを 太刀佩(は)きて
可爾波(かには)の 田居(たい)に 芹ぞ摘みける 」
巻20の4456    薩妙観命婦(さつのめうかんみょうぶ) 


「可爾波」京都山城町蟹幡の地で地名と蟹とを掛けている

( 貴方様は大変偉いお方だと思っておりましたのになんとまぁ、
  立派な刀を腰に差したまま蟹のように地面を這って
  芹を摘んで下さったのですか。
  それはそれはどうもありがとう)

お互い親しいもの同士が掛け合って戯れたもので、
「苦労して摘んだ芹だから大事に食べて下さいよ」と
些かもったいぶった歌に対しておどけながらも感謝の意を述べています。
当時、芹には強精作用があると信じられていました。
この事を念頭に入れてこの歌を読むとさらに面白味が増しましょう。

春の七草といえば七草粥。

平安時代の七種(ななくさ)粥は七種の穀類など 

米 粟(あわ) 黍(きび) 稗(ひえ) 
篁子(みの=水田に生える野草の実) 小豆 胡麻)で炊かれ、
正月15日(小正月)に食べました。

これはのちに小豆粥として継承されます。

現代の正月7日の朝に食べる七草粥の姿になるのは
鎌倉時代になってからのことです。

春の七草の名前の由来は次の通りです。

芹(せり) 一つのところで競り合って生えるので「せり」
薺(なずな) ぺんぺん草ともいう 
     果実の形が三角形で三味線の撥に似ており
     又、茎を口にくわえて引張って弾くとペンペンと音がする

繁縷(はこべら) 茎が長く連なって箆(へら)のように繁殖する

御形(ごぎょう) 母子草ともいう。茎の端に小さな頭花が球状に集まって

        咲くので子が母にまつわりつく様子を例えた。 

        御形は人形のこと。餅に入れ母子餅と称し
        後に蓬(よもぎ)に変わり現在の草餅となる
仏の座(ほとけのざ) 田平子(たびらこ)ともいい仏の座布団(蓮華)のような
          形をしている

菘(すずな) 蕪 根が球の形をしているので「かぶ」という かぶは頭のこと
清白(すずしろ) 大根 菘の代わり(菘代)ともいう 

なお、農業気象研究等で著名な大後美保氏は栄養補給の点から

「 三つ葉 春菊 レタス キャベツ セロリ ほうれん草 葱 」を

近代七草にと提唱しておられます。
栄養面では良いとしてもこれではとても七草の歌にはなりません。
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 10:19 | 植物

万葉集その三十九(富士)

「一富士 二鷹 三茄子」というよく知られた諺があり
「初夢に見ると縁起がよいもの」とされています。

その由来は徳川家康が領有した駿河の国の名物説など種々ある中で
次の説が最も説得力があるようです。即ち,

富士は「不死」に通じるので「不老長寿」

鷹は「高、貴」と訓が共通するので「出世栄達」

茄子は「事を成す」あるいは無駄花がなく実がたくさん出来るので
「子孫繁栄」をというものです。

富士山は万葉時代に噴火を繰り返した活火山でした。

633年、命知らずの役小角(えんのおづぬ)という修験道の祖が早くも
富士山に登頂し、
「そんな高い山に登ったのは世界初で、人類の到達した最高峰のこの記録は
8~900年間保持された」と深田久弥の「日本百名山」にも書かれております。

大和の宮廷歌人、山部赤人は東国への旅の途中、富士山を目のあたりにして
驚きと敬虔な崇拝の気持を次のように詠っています。長歌と反歌です。

 「 天地の分れし時ゆ 神さびて 高く貴き駿河なる 富士の高嶺を 

    天の原 振り放(さ)けみれば 渡る日の 影も隠らひ 

    照る月の 光も見えず 

    白雲も い行(ゆ)きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 

    語り告げ言い継ぎ行(ゆ)かむ 富士の高嶺は 」     

                        巻3の317 山部赤人

   「 田子の浦ゆ うち出(い)でてみれば 真白にぞ 

      富士の高嶺に 雪は降りける 」    
                 巻3の318 山部赤人


(天地の分れた時からずっと神々しく高く貴い駿河の富士の高嶺を

天遠く振り仰いでみると空渡る太陽の光も頂に隠れ、

照る月の光もさえぎられ 白雲も流れなずんでいつも雪が降り積っている。

これからも語りつぎ言いついでいこう、富士の高嶺は) 

   ーーー (中西進:万葉集全注釈より一部修正)

( 田子の浦を過ぎて景色が見渡せるところへ出てみると、おぉーなんと!

 富士山がそそり立ち山頂が真っ白になるほどに雪が積もっているよ。

 これはすばらしい! 感激だ!) 

この歌は「吟誦してそのまま歌の価値を味わうことの出来るすぐれた調べを持っている。
簡潔で意をつくしておりかつ荘重にして明るい」(伊藤博)と評されている万葉屈指の
秀歌です。

まず長歌で、富士は悠久の昔から崇高、清浄、雄大に四方を睥睨してそそり立ち、
太陽の光も照る月も白雲も、行くのを躊躇する厳然たる存在であることを観念的に
述べ「雪は降りける」に焦点を集中していきます。

さらに「語り告げ言い継ぎゆかむ」と永遠の命を詠います。 
これを受けて反歌は
「田子の浦ゆ」とは田子の浦を通っての意で、「うちいでて」は眼前に障害物のない
展望がぱっと開けた地点に出た時の感じをいい、現在の薩捶峠(さったとうげ)あた
りからの眺望とされています。

紺碧の空、大きく広がるコバルトブルーの海、その中に屹立し、山頂に白雪を頂く
神々しいまでの富士。

峠を登っていた赤人の目に突然その雄大な景色が出現した時の感動は
如何ばかりだったでしょうか?

「語り告げ言い継ぎゆかむ」とは自然にわき出た言葉であっただろうと思われます。

ところで長歌、反歌で「雪は降りける」と二度繰り返されます。

現代の大雪は多くの災害をもたらすものとされていますが、万葉時代に雪が降ること
は豊作の瑞兆とされていました。

まして富士山に「止む事なく雪が降る」ともなればこれ以上の吉兆はありません。
従ってこの歌は富士山の美しさ、崇高さを讃えると共に

「大和の国の繁栄よ、永遠なれ!」と国土を讃えた歌でもあります。

なお、反歌は新古今和歌集、百人一首にも一部語句を変え山部赤人作として
採用されています。

「田子の浦ゆ うち出(い)でて見れば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける」
                                      (万葉集)

「田子の浦に うち出(い)でて見れば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ」
                                (新古今、百人一首)

新古今の歌は船に乗り海上から富士を見ており、しかも雪が現在進行形で降っています。

雪の間から富士山が見え隠れしている感じで、蒼空のもとに雪を抱いてそそり立つ
富士山のイメージは姿を消し、幽玄の世界といってもよい情景となりました。

万葉と平安時代の貴族たちの感性の違いが際立つ一首ですが、
改作された作者の赤人もさぞかし目を白黒していることでしょう。
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 10:18 | 自然

万葉集その三十八(弓絃葉:ゆづるは=ゆずりは)

明治末期、口語自由詩を提唱した河井酔茗(かわいすいめい)は

「ゆずりは」と題する美しい詩をつくりました。

  こどもたちよ、これはゆずりはの木です。
  このゆずりはは 新しい葉ができると
  入れ代わって 古い葉が落ちてしまうのです。

  こんなに厚い葉 こんなに大きい葉でも
  新しい葉ができると無造作に落ちる、
  新しい葉に 命を譲って― 。

  こどもたちよ、
  おまえたちは何を欲しがらないでも
  すべてのものがおまえたちに譲られるのです。
  太陽のまわるかぎり 譲られるものは絶えません。

  世のおとうさん おかあさんたちは
  何一つ持っていかない。
  みんなおまえたちに譲っていくために、
  いのちあるもの よいもの 美しいものを
  一生懸命造っています。 

              (花鎮抄より部分抜粋)


「ゆずりは」は古代「弓絃葉(ゆづるは)」とよばれトウダイグサ科の常緑高木です。

春に出た新葉が成長すると前の葉がいっせいに落ち、新旧交代の特色が際立つので
「代を譲る」意で「譲葉(ゆずりは)」の名が付きました。

その名の由来から子孫永続の願いを込めて大晦日には生け花に用いられ、
またお正月のしめ飾りや鏡餅に添え、縁起物として使われています。

「いにしえに 恋ふる鳥かも 弓絃葉の
             御井(みい)の上より 鳴き渡りゆく」 
                       弓削皇子(ゆげのみこ) 巻2の111


「御井」は 聖なる泉

この歌は678年持統天皇が吉野に行幸された時、お伴した弓削皇子
(天武天皇第6皇子当時24歳)が都にいる額田王(当時63~64歳)に贈った歌です。

調べ美しく、格調が高い名歌とされています。

額田王は若くして天武天皇と結ばれ、十市皇女をもうけた後、
兄の天智天皇の寵愛をも受けた華々しいラブ・ロマンスの持ち主でありました。

一方、弓削皇子は持統天皇が自分の血筋(天武―草壁皇子―文武)に執着し、
他の諸皇子には厳しくあたる治世下にあって人一倍不安と哀愁を感じて
生きなければならない運命でした。

吉野にお伴した彼は天武天皇が在世中額田王と共に訪れ、しばしば遊宴を催した当時を
懐かしみ、また歌に弓絃葉を詠みこむことにより
時代の移り変わり、新旧交代する自然のあり方に感慨を示したものと思われます。

従ってこの歌の「いにしえ」とは皇子の父である天武天皇と若き額田王との
恋愛関係を指しています。

( 昔を恋うる鳥でしょうか。
  弓絃葉が茂る泉の上を今、よい声で鳴き渡っていきましたよ)

額田王は孫のように甘える弓削皇子に対して温かく、いとおしむような歌を返します。

「 いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす
             けだしや鳴きし 我(あ)が思(も)へるごと」  
                            額田王 巻2の112


ホトトギスには昔をしのんで鳴くという中国の故事があります。

( 皇子がお聞きになった鳥の声は恐らくホトトギスだと思います。
  丁度昔をしのんでいた私、同じ気持ちでホトトギスも鳴いたのでしょう)

「 年ごとに ゆづりゆづりて 譲り葉の
            ゆづりしあとに また新しく 」   河井酔茗


皆様、良き新年をお迎え下さい。
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 10:17 | 植物