万葉集その六百六十六 (伊勢の国)

( 伊勢神宮外宮:げぐう 参道 )
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(  同 正宮   衣食住と産業を司る 豊受大御神:とようけおおみかみ を祀る )
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(  同 風の宮 )
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( 宇治橋を渡って内宮参道へ )
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( 宇治橋の下を流れる清冽な五十鈴川 手前の柱は橋を流木から守る木よけ杭 )
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( 伊勢神宮 JRのPRポスター 神々しい雰囲気 )
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( 伊勢神宮 内宮正宮  天照大御神を祀る )
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( おかげ横丁 )
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( おはらい横丁 赤福本店 )
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( 伊勢海老の活き造り  おかげ横丁伊勢丸で)
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(  浜木綿:はまゆふ )
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( 二見が浦 夫婦岩 )
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 万葉集その六百六十六 (伊勢の国)

伊勢といえば伊勢神宮、神風、美しい海、浜木綿、伊勢海老、鮑、真珠。
四方山々に囲まれた盆地に住み、海に無縁の都人にとって憧れの国。
天皇の行幸ともなれば従駕(じゅうが)希望者が続出し、いざ出立の日は
官人、女官、数百人がきらびやかに着飾り、徒歩4~5日の旅を楽しみます。

早朝の清々しい空気の中、神宮に詣で、その神々しさに心洗われて気持を新たにした後、
岩をも砕く荒波、浜木綿が咲き乱れている浜辺、海に潜って鮑を獲る海女などを
目の当たりにした人々は思わず歓声をあげ、夜の宴で美味しい酒や魚貝類に
舌鼓をうったことでしょう。

  「 水澄むや 内宮へ木の橋 匂ふ 」  森高 武
 
万葉集には伊勢海老以外すべて歌に詠みこまれています。
まずは壬申の乱に神風を吹かせて大海人皇子(のち天武天皇)を勝利に
導いたとされる伊勢神宮からです。

「 度会(わたらひ)の 斎(いつ)き宮ゆ  
  神風に い吹き惑はし
  天雲を 日の目もみせず  
  常闇(とこやみ)に 覆ひたまひて
  定めてし 瑞穂の国を  神ながら 太敷きまして ― ― 。」
                   巻2-199 長歌の一部  柿本人麻呂

     度会(わたらひ):伊勢国の郡名 伊勢神宮の所在地

( 度会に斎き奉る伊勢の神宮から 
  吹き起こった神風で 敵を迷わせ
  その風がよぶ天雲で 敵に日の目も見せず天を真っ暗にして
  平定なさった瑞穂の国、 この国を我が天皇(天武、持統)が
  神のままに ご統治遊ばされ ― )

人麻呂が詠った歌の中で最も長く、かつ傑作とされているもので、
戦いの陣頭指揮を執り獅子奮迅の活躍をされた天武天皇の長子、高市皇子が
亡くなった時、当時の活躍の様子を偲び、褒めたたえたものです。

672年、近江朝との戦いを決意した大海人皇子は吉野を出発し
味方を集結させながら鈴鹿,不破の関を越えて近江の戦場に向かいました。
山越え、谷を渡り、難儀しながらようやく四日市北部の朝明川に辿りついたとき、
皇子は遥か南方の伊勢神宮に向かい戦勝と武運長久を祈ります。

歌は乱戦の最中、突然神風が吹き天地が暗闇に包まれて敵が混乱しているあいだに
攻め込んで大勝を収め、その結果、天皇が神としてこの瑞穂の国を
統治されていると詠っています。(実際には勝利するまで約1か月かかったようですが)

以来、「神風」は伊勢の枕詞となり、国難に際し必ず天照大神(あまてらす おおみかみ)、
豊受大神(とようけ おおみかみ:衣食住、産業を司る)の二神のご加護があると信じられ、
皇室の氏神を祀る守護神として崇められます。

天武天皇は即位後、感謝の意を奉げ、未婚の皇女(大伯皇女:おおくのみこ) を
神に奉仕させるため斎王(さいおう)に任命、神宮に派遣して絆を強化してゆきます。

斎王の始原は崇神天皇の代と伝えられていますが、その後途絶えており。
制度化されたのは天武時代が初めて。
一代一人限りの任命とされ、以降、南北朝時代まで続けられました。

「 大海(おほうみ)の  磯もとどろに  寄する波
       われて砕けて  さけて散るかも 」    源 実朝

伊勢神宮の参拝終わったあとは憧れの海へ。
荒波が岩礁にあたって砕け散る勇壮な場面が出現し、実朝の名歌は
次の一首を本歌取りしたものです。

「 伊勢の海の 磯もとどろに 寄する波
      畏(かしこ)き人に 恋ひわたるかも 」   
                           巻4-600 笠郎女

( 伊勢の海の磯をとどろかして 打ち寄せる波
      その波のように畏れ多いお方に私は恋ひ続けているのです。)

               畏き人:身分が高い人(大伴家持をさす)

作者は大伴家持に恋をしますが、一向に靡いてくれません。
郎女にとっては厳しくも辛い恋。
あらん限りの心情を吐露した24通の恋文をせっせと送り続けましたが反応なし。
遂に諦めて故郷に帰りました。

「 伊勢の海の 沖つ白波 花にもが
        包みて妹が 家づとにせむ 」 
                  巻3-306 安貴 王 (あきの おほきみ)

( 伊勢の海の沖の白波よ。
  これが花であったらなぁ。
  包んで持ち帰り、いとしいあの子の土産にしょうに。)

作者は志貴皇子の孫(天智天皇の曾孫)。
美しい白波を眺めながら都に残してきた愛しい人の顔を思い浮かべています。
流石、歌の名手の血を引くだけにロマンティックな一首です。

「 伊勢の海の 海人の島津が 鰒玉(あはびたま)
     採りて後もか  恋の繁けむ」   
                        巻7-1322 作者未詳

( 伊勢の海人が、志摩のアワビ真珠を採っています。
 もし私がそのような貴重な真珠、すなわちあの女性を得ることができたならば、
 後々まで変わることなく心を引かれ、思いを募り続けることが出来ようか。)

  困難であった恋がまさに成就しようとしているのですが、
  男はその前途に不安を抱いているようです。
  相手は身分違いの高貴な女性でしょうか?

 「島津」は「しまの津」すなわち「志摩」の地名(沢瀉久孝)で、
  当時から鮑、真珠の名産地として知られていました。

 万葉集での真珠は主として白玉と詠われ、水晶をも含む白い玉の総称と
 されていますが、アワビのみは別格。
 特に重んじられたのは、希少であることと、
 ピンクや青色の色彩が極めて美しく、まさに珠玉であったのでしょう。

「 伊勢の海女の 朝な夕なに 潜(かづ)くといふ
        鮑の貝の 片思(かたもひ)にして 」 
                      巻11― 2798 作者未詳

( 私の恋は伊勢の海女が朝に晩に水に潜って採るというアワビ貝のように
  片思いなのです。
  あぁ- この恋心。一体どうしたらよいのでしょう )

アワビは二枚の貝を持って生まれますが、生後十五日ほどで
透き通った片方の稚貝を捨ててしまうため「磯のあわびの片思い」と
詠われています。

水が澄み、潮の流れが良い海底の岩肌に居を定め、海藻を食べながら成長し、
古くは朝廷への貢物、お祝いの食用として重宝され、また干し鮑にして
保存されました。
 
「 み熊野の 浦の浜木綿 百重(ももへ)なす
       心は思(も)へど 直(ただ)に 逢はぬかも ) 
                         巻4―496 柿本人麻呂

    熊野: 三重県牟婁(むろ)郡 温泉としても有名

( 黒潮の洋々たる海辺、浜木綿の葉が幾重にも重なり合い白い花は実に美しい。
  このような素晴らしい光景なのに私の心は貴女にじかに会えないので一向に
  晴れやかになりません。
  まるで浜木綿のあの大きな葉が重なり合っているような重々しい気分です。
  貴女に対する熱い想いはあの黒潮の海のように広くて大きいのですが- -)

690年 持統天皇行幸された折の一首。
当時、人麻呂は朝廷の美しい官女に恋をしていたようです。

 浜木綿は茎の先に咲く白い花が神に祈る時に使う木綿の幣(ぬさ)に
似ているところからその名があり、大きな葉は万年青(おもと)に
そっくりなので、「浜おもと」とも。
群生し百合に似た甘美な香りを浜一面に漂わせます。

  「 浜ゆふや はら一ぱいの 花ざかり 」  沾圃(てんほ)

    「はら一ぱい」: 原一杯と腹いっぱい(満足、満足)を掛けているか。
             

江戸時代、「伊勢詣で」は「おかげまいり」と称して爆発的に流行しました。
十分な旅費がなくても道中で無料の食べ物、施行宿があり、神様や街道の
おかげで参宮出来たのです。

以来、現在に至るまで参拝者が絶えることなく大賑わい。
平成25年の年間参拝者は、なんと過去最高の1420万人に達したそうです。

おかげ横丁に入ると昔の面影を残す店の佇まい。
松坂肉、鮑、伊勢海老、赤福餅、美味しそうなものがいっぱいです。

特大の伊勢海老をお造りと焼き海老にしてもらいました。
美味い! 
満ち足りた万葉伊勢の旅。
またいつか訪れたいものです。

   「 伊勢海老の 髭の見事や 生きて着く 」 宮下翠舟


            万葉集666(伊勢の国)完

           次回の更新は1月12日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2018-01-04 15:56 | 万葉の旅

万葉集その六百六十五 (新年の歌:戌)

( 謹賀新年 本年もどうぞよろしくお願いいたします。 吾妻山公園 神奈川から)
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( 本年は戌年  国立新美術館で )
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( 招福干支  東京人形町 )
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(   同上 )
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( おかげ犬 主人の名前を書いた袋を首に下げ伊勢詣でをしたそうな 伊勢おかげ横丁で)
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( 一刀彫  奈良 )
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( 土鈴の犬:神楽坂  起き上がり小法師(会津)  自宅で)
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( ポスター  図書カードPR用 )
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万葉集その六百六十五 (新年の歌:戌 )

「 新(あらた)しき 年の初めの 初春の
    今日(けふ)降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)」 
                         巻20-4516  大伴家持

( 新しい年の初め、この初春の今日降る雪のように
  めでたいことも次々と積み重なれ。 )

「いやしけ」: あとからあとから絶えることなく。

759年、因幡国庁(鳥取県)での賀宴で詠われたもので
万葉集掉尾(ちょうび)を飾る一首。
当時、正月の大雪は豊年の瑞兆と考えられており、さらに、
この年は暦の上で元旦と立春が重なるという吉日。
幾重にもめでたい新年の歌です。 

「 春立つや 新年ふるき 米五升 」  芭蕉

「ふるき米」は旧年中に人が瓢箪にいれてくれた米。
「さぁ、我家のひさごは米五升も入って心豊かな新年がやってきた。」と寿ぐ作者。

 「 犬ころが 越後獅子より あざやかに
        舞ふとて二人 手のひらを打つ 」 与謝野晶子
                                   犬ころ:子犬

本年の十二干支は戌、動物は犬が当てられています。
「戌」は「一」と「伐(ほこ)」を組み合わせた会意文字で、もともと
「刃物で作物を刈ってひとまとめに締めくくり、収穫する」意であったそうですが
干支名となったので原義が忘れられ「犬」と同義語になっています。

また「犬」は「いぬ」を描いた象形文字。
犬と戌がなぜ組み合わされたのかは定かではありません。

犬はあらゆる動物の中で最も古い家畜の一つとされ、今から2万年も前から
先祖である狼かそれに似た動物を長年にわたって飼い馴らし、交配を重ねて
生み出されたものと考えられています。

我国では縄文時代の遺跡から出土した骨などから、人々の良き伴侶して
生活をしていたことが窺われ、その祖先は今日の秋田犬と推定。
大和朝廷では「犬養部」という専門部署を設けて狩猟、警備、労役、軍用、
愛玩用に飼育させる重要な動物でした。

万葉集では3首(うち長歌2)。
次の歌は番犬として詠われたもので、まずは訳文から。

「 赤駒を 馬屋に立たせ 黒駒を馬屋に立たせ
  そいつを大事に世話して 私が乗って行くように
  可愛いい妻が おれの心に乗りかかってきてさ。(男の思い) 」

 「 そうそう、高い山の峰のくぼみに
   射目を設けて鹿猪(しし)を 待ち伏せるように
   寝床を敷いて 私がお越しを待っている方なのだから
   犬よ、やたらに吠えないでおくれ。 (女の思い)  」 
                           巻13-3278 作者未詳

訓みくだし文

「 赤駒を 馬屋に立て 黒駒を 馬屋に立てて
  そを飼ひ  我が行くごとく
  思ひ妻 心に乗りて

  高山の 峰のたをりに
  射目(いめ)立てて  鹿猪(しし)待つごとく
  床敷きて 我が待つ君を
  犬な吠えそね 」
                  巻13-3278  作者未詳

 赤駒: 栗毛の雄馬
          赤駒、黒駒の対句によって勢ぞろいして馬に乗り
          狩りに出かける様子を述べる

     そを飼い: 赤駒、黒駒を大切に飼育し

     心に乗りて: 我が心に乗っかって離れない

     峰のたをりに: 「たをり」峰続きの山の低くなった部分、鞍部で動物の通路

     射目:鳥獣を射るために身を隠す場所

     床敷きて: 共寝するために予め自分の着物を敷くこと
 
 狩猟における収穫の宴の場で身振り,所作を交えながら
 寸劇を演じたものと思われ

「 我家の守りについているワン公よ、私の恋の邪魔立てをするんじゃないよ」と
おどけたユーモラスな一首。

伊藤博氏は
「 健康に満ちた、古代の狩場の高笑いがじかに聞こえてくるような歌で
  興趣が尽きない。
  生産に直結する男女のかような関係を、身をもって興じることは
  幸の寿ぎにつながり、人々の歓楽をこよなく誘ったのであろう 」
  と評されています。

 「 かろやかに 駈けぬけゆきて ふりかへり
            われに見入る 犬のひとみよ 」   若山牧水

犬は古くから作物の獣害を追い払う霊性をもつ神の使いとされていました。
大和朝廷では薩摩隼人(狗人:くびと ともいう)を宮廷の警護や儀式役に任命し、
隼人は見廻りにあたって吠声(はいせい)を発していたそうです。

「吠声」とは犬の吠える声をまねたものですが、邪神、悪鬼を追い払い
あたりを祓い清める呪術とされ、日常の警護のほか天皇の行幸の際にも
大声を出しながら先頭を歩き、さらに幕末に孝明天皇の大嘗祭でも
隼人発声がなされたといわれています。

現在いたるところの神社にみられる狛犬はこのような犬の霊性が
具象化されたものでしょうか。

  「 犬吠(ほえ)て 里遠からず 冬木立 」 正岡子規


   ご参考: 戌年生まれの一代運勢

正直で義理堅く、自尊心が強い。
おおむね他力本願で成功する天運。
したがって謙虚にして、目上に従えば中年になって抜群の出世をする。
但し、強情さを謹んで謙虚にしないと、悔いの多い人生を送る憂いがあるので要注意。

               ( 十二干支の話題辞典 加藤迪男 東京堂出版より )


     
       万葉集665 (新年の歌 戌) 完


     次回の更新は1月5日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2018-01-01 00:00 | 生活

万葉集その六百六十四 (刀剣乱舞)

( 古代の飾り太刀復元品  藤の木古墳出土 奈良橿原考古学研究所 )
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( 水龍剣 刀身は聖武天皇の佩刀と伝えられ明治天皇が拵えを製作させ佩刀された。東京国立美術館)
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( 伯耆安綱   平安時代  東京国立博物館 )
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( 粟田口久国  鎌倉時代   同上 )
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( 相州正宗    同上 )
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( アイヌ太刀   東京国立博物館 )
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(  刀剣乱舞展   秋葉原 )
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(   同上  )
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    万葉集その六百六十四 (刀剣乱舞)   

桶谷繁雄著 「金属と日本人の歴史」(講談社学術文庫)によると

『 古代の刀剣は正倉院に多数保存されており(刀剣55 小刀短刀72)、
  そのほとんどは直刀である。
  さらに、平安時代の800~900年に伯耆国(鳥取県)に安綱という名工が出現し
  我国の造刀技術が完成したと伝えられ、現在見られる日本刀の形へと変わった。
  鎌倉時代になると、実用的な鋭利な刀が多数製造され、粟田口国吉、
  来国俊、正宗、定宗、一文字吉房、青江助次、波平行安など名工といわれる人々が
  全国に輩出した。』(要約)そうです。

これらの名刀は国立東京博物館に常時陳列されており、何時でも鑑賞することが
出来ますが、今やゲーム「刀剣乱舞」やコミックマーケットの影響で
「刀剣女子」の博物館巡りが大流行。
かたや、秋葉原で「刀剣乱舞展」が開催されており、若い女性で超満員です。

万葉集には剣太刀、焼太刀、枕太刀と表現されたものが34首。
枕詞や恋歌に多く見られる中で、次の歌は太刀そのものを詠った数少ない例です。

「 焼太刀の かど打ち放ち ますらをの
    壽(ほ)く豊御酒(とよみき)に 我れ酔(ゑ)ひにけり」 
                                    巻6-989 湯原王

( 焼き鍛えた太刀の切っ先で酒を打ち 大丈夫(ますらを)が祝う美味い酒に
  私はすっかりと酔ってしまいましたよ )

  「焼太刀」:何度も焼いて鍛えた太刀 

  「かど打ち」:太刀の切っ先で酒を御祓いして悪霊を追い払うという呪法。

  「豊神酒 」: 祝い酒

万葉人は刀鍛冶が赤く熱した鋼を何度も力強くたたいて見事な刀に仕上げていくのを
目の当たりにし、その様子を「焼太刀」という3文字で表現しました。

  「かど打ち」の「かど」は「稜(かど)」で太刀の切っ先。

  「門出」の「かど」を掛けているとしたら誰かの旅の出立を祝っての
  酒盛りであったのかもしれません。

作者は天智天皇の孫。
「 あぁ、美味い酒だ、酔った酔った」という声が聞こえてきそうな
調子がよく、力強い歌です。

「 焼太刀を 砺波(となみ)の関に 明日よりは
    守部(もりへ)遣(や)り添へ 君を留(とど)めむ 」 
                              巻18-4085 大伴家持

( 焼いて鍛えた太刀、 その太刀を磨ぐという砺波の関に、明日からは
 番人をもっとふやして あなた様をお引き留めいたしましょう。)

ここでの焼太刀は「砥石で磨ぐ」の意で砺波(となみ)に掛かる枕詞。

749年 東大寺の僧、平栄(びょうえう)他数人が寺所属の開墾田の状況を
確かめるため越中を訪れました。
当時の世相は元正上皇が他界され、聖武天皇が即位されたり、
大仏建立のための黄金が陸奥国から献上されるなど大きな出来事があった時期。

越中国司、家持は都の状況を聞きたいという事もあり、平栄を歓待し
「 1日でも長く御滞在下さい。砺波の関を固めてお通しいたしませんよ」と
おどけながら、引きとめたもの。

都の大きな動きを耳にしなが、心を弾ませている作者の顔が
目に浮かぶような1首です。

「 枕太刀(まくらたし) 腰にとり佩(は)き ま愛(かな)しき
        背(せ)ろが 罷(ま)き来(こ)む 月の知らなく 」 
                     巻20-4413 大伴部 真足女(おほともべの またりべ)


( 枕太刀を腰にとり帯びていて凛々しく 愛しくてならないあなた。
 元気でお帰りになる日が何時のことかわからないのね。
 あぁ、寂しい! 早く帰ってきて!)

  「枕太刀」:「夜寝る時も手放さず枕元に置く愛刀」のちの脇差か。

  「罷(ま)き来(こ)む」:「罷(ま)かる」(退出する)と同義語。
                ここでは役目を終えて帰るの意

作者は武蔵国の防人の妻。
いよいよ大宰府へ出発、太刀を佩いた雄々しい夫。
同じ姿で無事帰ってくるのは何時の日かと案じています。

防人の任期は3年、任地まで徒歩に野宿、熊などに襲われる危険があり
生還が確実視出来ない当時の長旅でした。
しかも、旅費は往路難波まで自費、帰りは全額自己負担という過酷なもの。
食糧が尽きて行き倒れになった人も大勢おり、愛する人たちにとっては
今生の別れにも等しい旅立ちであったことでしょう。

「 剣太刀 身に佩(は)き添ふる ますらをや
     恋といふものを 忍びかねてむ 」 
                     巻11-2635  作者未詳

( 剣太刀 この立派な太刀を身に帯びている丈夫(ますらを)たるものが、
 恋と云うものの苦しみに耐えきれないものなのだろうか )

恋は剣より強し。
自嘲しながらも嬉々としている男ですが、今や幻想の舞台に酔いしれる
刀剣女子の時代です。

       「 刀剣を 帯びた美女たち 空を舞う 」 筆者



               万葉集664(刀剣乱舞) 完

             次回の更新は新年1月2日( 火)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-12-21 15:14 | 生活

万葉集その六百六十三 (有馬皇子)

( 有馬皇子系図 中大兄皇子:のち天智天皇は有馬皇子の伯父にあたる)
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( 結びの松の碑  和歌山県日高郡南部町西岩代 )
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( 有馬皇子   上村松篁 )
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( いはしろ  岸野圭作  末尾の作者の言葉ご参照 )
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( 六義園案内板  東京 )
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( 六義園の藤代峠 )
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(  同上 )
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(  同上  頂上から )
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万葉集その六百六十三(有馬皇子)

645年、中大兄皇子と藤原鎌足は専横を極める蘇我一族を亡ぼし、
天皇中心の政権に回帰させました。
世にいう大化の改新です。
当時の天皇は皇極女帝、外交儀式の最中に実子、中大兄皇子が
宮殿内で宰相を誅殺したのですから、ショックは相当なものであったことでしょう。

事件後、女帝は周囲を憚り、弟、軽皇子(かるのみこ)に譲位され、孝徳天皇が誕生します。
新帝は有馬皇子の父君で、皇子は有力な皇位継承者になりましたが、
同時に中大兄皇子にとっては目障りなライバルとなり、後の悲劇の火種が蒔かれたのです。

孝徳天皇は即位と同時に都を飛鳥から難波に遷されましたが、ほとぼりが冷めた9年後、
中大兄皇子は再び飛鳥にもどすことを天皇に進言します。
ところが天皇は頑として応じられません。
説得を諦めた中大兄皇子は強引にも皇極上皇、弟の大海人皇子、
間人皇后 (はしひとこうごう 中大兄皇子の妹) をはじめ、公卿大夫、
百官に至るまですべてを引きつれ、なんと天皇一人置き去りにして飛鳥へ遷ったのです。

特に最愛の皇后まで同行したことは天皇にとりショックだったことでしょう。
なにしろ中大兄皇子は妹である皇后に恋愛感情を抱いていたと噂されていたのですから。

愕然とした天皇は憔悴し、翌年(654)、孤独のまま崩御。
有馬皇子(当時16歳)にとって中大兄皇子が父を殺したと
恨めしく思ったとしてもおかしくありません。

飛鳥に戻った皇極上皇は重祚(ちょうそ)され、斉明天皇の誕生。
( 重祚:一度退位して再度即位すること )

政治の実権を握った中大兄皇子は権力を誇るかのように大和多武峰の山上に
双槻宮(なみつきのみや)造営の大土木事業をはじめます。
それは、香久山の西側に船200隻通行可能な運河を作るという 
とてつもない大工事で、全国から人民を徴発し、過酷な労働を課した為、
怨嗟の声が湧き起ります。
宮殿への放火が続き、豪族の間で次第に皇位継承者に有馬皇子待望論が
台頭し始めました。
父親の処遇を目の前で見ていた皇子は身の危険を感じたのでしょう、
遂に狂人を装い、身をくらまそうとします。
まさにハムレットばりの演技。

そして18歳の時、牟婁の湯(むろのゆ 和歌山県)に療養に出かけ、
しばらく滞在したのち帰京した皇子は中大兄皇子に
「 牟婁の湯は大変効果があり、お蔭で体調も回復しました。」と報告します。

翌657年、悲劇の幕開けです。
斉明天皇は孫の建皇子(たけるのみこ)を病気で亡くし悲嘆にくれておられ、
傷心を慰めるため牟婁の湯に行幸されることになります。
中大兄皇子も同行し留守を蘇我赤兄(あかえ)に託します。

それからしばらくしてから生駒に住んでいた有馬皇子が赤兄を訪問。
疎遠であった二人の久しぶりの歓談がひとしきり終わった頃合いを見て、
赤兄は皇子に

「 さて、近頃の時世は騒然としてきましたね。
  皇子殿はどう思われますか?」

と問いかけます。
皇子は用心しながら

「 中大兄皇子の政治は結構だと思います。」
  と当たり障りのない回答。

すると、赤兄は

「 本当にそう思っているのですか?
  私は中大兄皇子には3つの大きな失政があると思っている。
  一つ、大きな倉を建て、民の財を取り立てている。
  二つ、運河を掘り公の宝を無駄遣いしている。
  三つ、巨大な双槻宮(なみつきのみや)を造営。」

貴殿は如何に?

若い有馬皇子はまんまと誘導に乗り、
「 あなたがそう思うなら私も同じ考えだ。」
さらに勢いに乗り
「 いまこそ 兵を用いるべきだ」と踏みこんでしまいました。

赤兄は腹の中でにんまりしながら、
「 それでは私も考えるところがあるから2日後にもう一度
  お出で下さい。
  作戦計画を練りましょう」 と答える。

そして2日後、二人の作戦計画です。

 「 まず飛鳥に放火、兵500人を紀伊に向けて派遣、
   行幸の一行を淡路島で迎え撃つ 」
など、具体的な話をしていたら突然、有馬皇子の脇息(肘掛) が折れました。
予め赤兄が細工していたのかもしれません。

赤兄曰く、「 これは不吉だ。 
また今度にして今日の話は、なかったことに。」
と云い、有馬皇子を帰します。

そして皇子が帰宅した頃を見計らい、
配下の物部 朴井 連鮪( もののべの えのいの むらじ しび)という人物に命じ
謀反の現行犯として逮捕させた後、中大兄皇子に急報し牟婁の湯まで連れていったのです。

恐らく、両者は予め示し合わせていたのでしょう。
次の歌は、有馬皇子が飛鳥から牟婁の湯に護送される途中、
和歌山の岩代いうところで詠まれたものです。
  
「 岩代の 浜松が枝を 引き結び
    ま幸(さき)くあれば また帰り見む 」
                     巻2-141 有馬皇子

( あぁ 私は今 岩代の浜松の枝と枝とを引き結んで行く。
もし万が一願いが叶って無事でいられたら、 またここに立ち帰って
この松を見ることであろう。)
古代の人は異郷を旅するとき、その地の地霊に安全を祈念しました。

特に岩石には強力な神が宿るとされ「岩代」という地にねんごろな
祈りを奉げたものと思われます。
この場所は、熊野神社の入口にあたるだけになおさらのことだったのでしょう。
引き結んだのは幣帛か枝と枝とを結んだのか分かりませんが、
ともに神聖な儀式です。
再び戻ることがないと覚悟しつつ、一心不乱に神のご加護を祈る皇子。
その心情察するにあまりあります。

「 家なれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕
       旅にしあれば 椎(しひ)の葉に盛る 」 
                           巻2-142 有馬皇子

( 家にいる時は立派な器物に盛ってお供えする飯なのに
 今は旅の身ゆえに椎の葉に盛らせていただきます。神様。)

近くに祠か石仏があったのでしょうか。
木の葉に飯を盛って神に供える習慣は今でも続いているそうです。

この歌は従来、皇子が囚われの身ゆえ
「 自身の食事は立派な器ではなく貧しい木の葉で摂ることよ。
  侘びしさがつのる。」と解釈されていましたが

国学院大学教授、高崎正秀氏が「これは神に奉げる飯のことである」と
発表されて以来、神饌であることが通説になっています。

さて、中大兄皇子の前に引き立てられた有馬皇子。
「 お前はなんで謀反を起こそうとしたのだ 」と尋問を受けます。

皇子は既に計られたと悟り、死を覚悟していたのでしょう。

「 天と赤兄が知る。われは知らず。」と答えました。

お前さんの胸によく聞いてみるがよい。
あなたと赤兄の奸計だと暗に云ったのです。

中大兄は「 よし、もう帰れ。」と命じたものの、もとより許すはずがありません。
そして、多治比 小沢連熊襲(たじひの おざわむらじ くにそ) に後を追わせ
熊野街道、藤代坂で自ら首をくくらせました。
弱冠19歳。
毛並みよく有能だっただけに中大兄皇子にとって自身の存在を脅かす邪魔者。
ライバルは早めに消せとの思惑が働いたものと思われます。

有馬皇子が残した歌は2首のみ。
死を覚悟した若者とは思えない静謐、毅然とした調べの名歌です。

それから43年後の大宝元年(701)、文武天皇と祖母、持統太政天皇が
牟婁の湯に行幸されたとき、随行していた人麻呂?がその心情を慮って詠います。

「 のち見むと 君が結べる 岩代の
      小松がうれを またも見むかも 」 
                       巻2-146 柿本人麻呂歌集

( のちに見ようと皇子が痛ましくも結んでおかれた松の梢よ。
  この梢を私は再び見ることが出来ようか。 )

「何度でも見に来て皇子を偲びたいが、おそらく無理であろう。
 とうか魂よ、安穏におさまり給え。」
と有馬皇子を偲び、さらに

「 岩代の  野中に立てる 結び松
     心も解けず いにしへ思ほゆ 」 
                  巻2-144   長忌寸 意吉麻呂 (ながのいみき おきまろ)

( 岩代の 野中に立っている結び松よ
 お前の結び目のように、私の心はふさぎ結ぼれて
 昔のことがしきりに思われる )

「 天翔(かけ)り あり通(がよ)ひつつ 見らめども
    人こそ知らね 松は知るらむ 」 
                          巻2-145 山上憶良

( 皇子の御魂は天空を飛びかいながら常にご覧になっておりましょうが、
     人にはそれが見えません。
     しかし松はちゃんと知っているのでしょう。)

と続々追悼の歌が奉げられました。

668年、中大兄皇子は近江大津宮で即位。天智天皇誕生。
ほどなく病床に就いたとき、皇太弟、大海人皇子に譲位を持ちかけますが、
有馬皇子の事件を熟知している大海人は奸計と直感して直ちに辞退し、
天智の子、大友皇子に皇位をと申し出て剃髪して恭順を示し、
天皇が油断している間に僅かな人数で吉野に逃れたのです。

672年、大海人皇子は壬申の乱で勝利して天武天皇に即位。
ようやく凄まじい骨肉の争いに幕を閉じたかと思われましたが
天武死後、持統女帝の時代、再び大津皇子の悲劇が起こりました。

有馬皇子、大津皇子の波乱万丈の運命は後の人々の心をうち、
色々な小説になって伝えられています。

   「 藤代の 落花を敷きて 皇子の墓 」  山口超心鬼


ご参考:

1、掲載画 「いはしろ」 岸野圭作画伯のことば 

「 紀伊半島の中ほど岩代の地に、ともすると国道を往来する車の影に
  かき消されそうになりながら、有馬皇子の碑は建っている。
  ここから海を眺めていると夕日が見える。
  1300年余の昔、この夕日が明日の朝日へ続くように、夕照の中、
  皇子は、再びこの地へ帰ること願い、習によって松を結び、
  歌を残したのではないかと思う。
  しかし願いは叶えられる事なく、同じ紀伊藤白において、
  その短い生涯を閉じる。
  皇子の心も時代のことも私には知る由も無いが、今はただ粛々として
  松が枝を揺らし吹く風と、悠久の時を刻む海を見たささやかな出来事を
  聞いたような気がした 」 

 2、大津皇子については

     万葉集遊楽 その530 「大津皇子1」
           その531 「大津皇子2」
   をご参照下さい


           万葉集663 (有馬皇子) 完


            次回の更新は12月22日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-12-14 16:15 | 生活

万葉集六百六十二 (椎の木)

( 椎の木 :スダジイ 自然教育園  東京 )
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( 同上  奈良万葉植物園 )
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( 椎の実 スダジイ  奈良公園 )
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( 同上   マテバシイ  同上 ) 
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( 椎の原木は椎茸のホタギ:榾木 に用いられる  長谷寺参道で 奈良 )
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( クヌギの実   自然教育園  東京 )
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万葉集その六百六十二 (椎の木)  

椎(シイ)はスジダイ(イタジイ)、ツブラジイ(コジイ)、マテバシイの総称とされ、
本州以南に生育する常緑高木です。
照葉樹林の代表的構成種とされ、スジダイ、ツブラジイはブナ科シイ属、
マテバシイは別種マテバシイ属。
共に堅くて弾力があり建築材、家具材とされたほか、木の実はアク(タンニン)が
少なく生食できる上、60%が糖質でカリウムが多く、ビタミンB1、B2、Cなど
栄養価が高いので古代の重要な食糧とされていました。
また、原木は椎茸栽培の榾木(ほだぎ)、薪炭、樹皮は漁網の染料、利尿薬としても
用いられる有用の木です。

万葉集では3首。
生活に密着した樹木にもかかわらず少ないのは意外な気がします。

「 片岡の この向つ峰(を)に 椎蒔かば
            今年の夏の 蔭にならむか 」 
                   巻7-1098 柿本人麻呂歌集

( 片岡と云う名の、この向かいの高みに、椎の実を蒔いたなら
 今年の夏には日かげになるほどに育っていようか )

片岡は奈良県北葛飾郡王寺町から香芝町一帯。
シイは枝葉がよく茂りよく日蔭をつくりますが、大木になるには少なくとも
30年以上かかるとされていますので、この歌は文学的表現。
「恋の種を蒔いたなら、夏に成就するだろうか?」の気持ちが含まれているのかも
しれません。

   「 先ず頼む 椎の木もあり 夏木立 」 芭蕉

元禄2年、6か月を費やした奥羽、北陸の長旅ののち近江、石山の奥
国分山の幻住庵に住むことになった時詠まれた一句。
長い漂泊の旅のあと安住の場を得た安らぎの気持ちを椎の木陰に託したものです。



「 遅早(おそはや)も 汝(な)をこそ 待ため
    向(むか)つ峰(を)の 椎の小枝(こやで)の逢ひは 違(たが)はじ 」 
                                 巻14-3493  作者未詳

( 遅かろうが早かろうが、お前さんの来るのを待とう。
 真向いの峰の椎の小枝が重なりあっているように、
 逢えることは間違いないだろうから。)

「遅早(おそはや)も」: 相手が来るのが遅かろうが早かろうが

「向(むか)つ峰(を)の 椎の小枝」: 
                逢ひを導く序詞で 「向かいの峰の椎の小枝」
                シイは小枝が多く交叉(こうさ)するので
               「小枝(こやで)と女が「来(こ)や」を掛けている。
               小枝(こやで)は小枝(こえだ)の訛り。

向うの山の椎の木を眺めながら女を待っている男。
出来るなら早く来てほしいという気持ちが籠っています。

この歌には次の一首が併記されており、女の歌と思われます。

「 遅早(おそはや)も 君をし 待たむ
    向(むか)つ峰(を)の  椎のさ枝の 時は過ぐとも 」 
                   巻14-3493 或る本の歌  作者未詳

( 遅かろうが早かろうがあなたのお出でを待ちましょう。
 真向いの峰の椎の若枝が茂る時、その約束が過ぎようとも )

        椎のさ枝: 椎の若枝が茂る 「時」を起こす序 

     「 団栗や ころり子供の 言うなりに 」 一茶

                   (団栗(どんぐり)は木の実の総称)

奈良公園は団栗の宝庫、椎をはじめイチイガシの実などいたるところに
落ちています。
大きなもの小さいもの、
細長いものから丸いもの。
中にはトチやコナラの実も。
幼い頃、集めては箱にしまった思い出の宝物です。

  「 椎の実 沢山拾うて来た 息をはづませ 」  河東碧悟桐



         万葉集622(椎の木) 完

         次回の更新は12月15日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-12-07 15:27 | 植物